見出し画像

「私」から離れて隣り合う──キュンチョメ『いちばんやわらかい場所』レポート

芝田 遥(制作者)
______________________

独自の嗅覚とクリエイティビティをもって、現実に分け入り、複雑かつリアルな感情や矛盾を引き出すアートユニット、キュンチョメ。3月上旬に開催されたワークショップは、「ぬいぐるみ」を媒介に、参加者それぞれの無意識下にある「やわらかい場所」を探り、刺激するものだった。制作担当の芝田遥が、その一部始終と、自らの経験を報告する。

 約20名の参加者が集められたのは、ゆりかもめ台場駅。お昼すぎだからか、まだ人通りはそこまで多くない。参加者は「子供の頃にいちばん大切にしていたぬいぐるみ」を持ってくるという以外には、何も知らされていなかった。これからいったい何が起こるのか、期待と不安が混じり合い、見知らぬ参加者同士ぎこちない距離感。キュンチョメの2人が現れると、いよいよワークショップのスタートだ。最初は参加者の中で2人1組になり、「ぬいぐるみについての思い出」を話してほしいとうながされる。初めて会った人と、自己紹介よりも前に自身の大切なぬいぐるみを紹介し合いながら、海浜公園に面したショッピングエリアを歩く。
 10分程度話し合った後、ペアをシャッフルし、違うトピックへ。「ぬいぐるみを見つけられた経緯、または見つけられなかった経緯」、そこから派生して、見つけようとした時に家族とどんなことを話したか、どんなことを感じたかを語る参加者もいた。なんとなく話している間に実物を紹介したくなったのだろうか、それぞれの手元にはディズニーの有名なキャラクターから100円ショップでたまたま購入したぬいぐるみ、日本各地のご当地キャラまで大小さまざまなぬいぐるみの姿が見えていた。
 ここで再びペアを交換、最後のトピックに移る。「ぬいぐるみを抱きしめながら、あなた自身を束縛しているものや、束縛していたものについて話してみてください」。今までとは一変して自分の内面に踏み込んでいくトピックだからこそ、大切なぬいぐるみと一緒に語り合っていく。「家族」「学校」「女であること」「育児」など、初対面ではなかなか語られることがないさまざまなキーワードが聞こえてきた。ぬいぐるみがそれぞれの心の壁を解きほぐし、お互いのやわらかい場所に少しずつ近づいているのか、それとも自身が自分のやわらかい場所に近づいているのか、そんな不思議な感覚が参加者の間に芽生え始めているのが見えた。

やわらかいものと共に、やわらかくなってみる

 いつの間にか一行は、台場区民センターに到着。そこではずらっと並んだ動物の着ぐるみたちが、静かに参加者たちを迎えてくれた。参加者はここから、かつて自分が愛していたやわらかいもの(=ぬいぐるみ)を持って、やわらかいもの(=着ぐるみ)に包まれながら歩き回ることになる。自分にぴったりの着ぐるみはどれか、直感で選ぶ人もいれば、迷いながら触り心地(着心地)や顔の形を見て吟味する人も。そんな過程は、自分の大切なぬいぐるみを購入するときのそれと似ているようだった。はしゃぎながら着ぐるみを選んだ後は、多くの参加者が着ぐるみ着用後の自分を写真に収めようと、撮影会が行われていた。どうしてもやわらかいものに包まれた自身の姿を記録しておきたい、確認したい、そんな欲望が無意識に顕在化していたのかもしれない。
 全員の準備が完了すると、先ほど来た道を通って台場駅周辺の広場に戻る。ただ前半とは違って、ぬいぐるみを持ち着ぐるみに覆われた参加者たちは、かなりゆっくりとした速度でしか進めない。視野が狭まり、足元もおぼつかない中で、自分の名前ではなく「パンダさん」「リスさん」と動物の名前で呼ばれながら、スタッフに補助されながら歩いていく。ランチタイムも終わり人通りも増えたお台場で、20体の着ぐるみがゾロゾロと歩いている様子は、単なる愛おしい(大きめの)ぬいぐるみの集団とは言い難い、異質の光景だった。それでも小さい子供たちが怯えながらも手を振ってくれたり、高校生が大盛り上がりしていたり、いろんな人間たちが興味を示してくれる。着ぐるみという無敵のやわらかいものをまとうだけで、前半はお台場の風景にすっかり溶け込んでいた参加者たちが、通り過ぎる人全員からラブコールを受けるまでの突出した存在感を持つようになっていた。

画像3

 やっとのことで広場に着いて集合写真を撮った後は、キュンチョメからの指示は特になく、「大きなぬいぐるみ」になった参加者が自らの意思で約20分間自由行動をすることが求められた。少し経って周りを見回してみると、右側には子供に囲まれ人気者のパンダさんが、左側には東京湾を見下ろして一人思いに耽るカッパさんがいた。どの動物たちも意外と冒険家なのか、エレベーターに乗ってみたり施設に入って怒られたり、横断歩道を渡ってみたり。いつの間にか参加者同士でもつながりが生まれ、一緒にダンスをするグループもいれば、かたや「だるまさんが転んだ」で遊んでいる動物たちもいた。与えられたお題に沿って話すこと、着ぐるみを着ることなど、型にはまった実践を参加者たちが共に行う儀式的な面が強かった前半に対し、アーティストからの指示もなく「参加者を完全に信じる」ことが前提となっていたワークショップ後半では、予測不能の化学反応が同時多発的に発生しているようだった。自由時間の後は、区民センターに戻り、ぬいぐるみだけの記念撮影。ワークショップ開始当初のぎこちなさはどこへやら、参加者全員が和気藹々とわが子(ぬいぐるみ)の集合写真をカメラに納める様子は、とても微笑ましいものだった。

画像2

束縛から解放された、やわらかい自分

 着ぐるみに入ると、見ること・聞くことがかなり不自由になり、発話は基本的にしない(というより「したくない」という心理的反応が生まれる)。加えて、着ぐるみを着ることで自らのパーソナリティーはほぼ隠すことができる。ジェンダー、セクシュアリティ、容姿、人種、声、言語、人間性だって失われる。触れ合いにくる子供や他人は皆、「パンダさん」「ライオンさん」として会いにくるから。
 私自身、着ぐるみの体験をした時も、女性という「性的対象物」として消費される時の目線とは全く違う目線を向けられることが、こんなにも幸せなことなのか、と愕然とした。もちろんその目線を好意のある人から向けられたら嬉しいかもしれないし、それが自己肯定感につながることだってあるのかもしれない。それでも、そこに対等性を感じられない私は、いかなる時もその「目線」に縛られてきた。時には恐怖でもあった。いつものように、女性の体で歩いていると、いつの間にか「見る主体・客体」の関係性が勝手に作られる。そしてほとんどの場合私が「客体」、向けられるものは「性的な視線」だった。それが着ぐるみをかぶっただけで、ただの「視線」になるのだ。でもそこに愛はあって、やわらかくて可愛い、自分のペットや赤ちゃん、そして大切なぬいぐるみに向けるような愛が存在している。そんな愛のある視線をたくさん向けられて、もう逃れられないと諦めていた「女性の体」という束縛や抑制から、少しだけ解き放たれた気がした。
 おそらくそれはジェンダーの話だけではなく、ただ一体の「やわらかいもの」として愛のある視線を向けられることで、年を重ねて自分を形作り、ある意味抑圧しているとも言えるパーソナリティーから解放され、必死に壁を作り守り続けてきた自身の「いちばんやわらかい場所」に久しぶりに到達できた、そんな感覚なのかもしれない。自分の人生を振り返ってみても、そんな視線を向けられたのは自分が赤ちゃんの時以来だった。何も話せず、視界もまだぼんやり、でも大切な人たちの声だけは聞こえる。束縛なんて何もなくて、たくさんの人からかわいいね、元気に育ってね、と愛のある視線を否応なくたくさんもらっていたあの時期。多分自分がいちばんやわらかい場所にいて、やわらかい時だった。
 社会や時代に揉まれ、自分ががんじがらめに固められても「いちばんやわらかい場所」はずっとそこにあった。忘れられがちだけれど、ちゃんと存在していた。ある程度大人になってしまうと、なんだか恥ずかしくなって、あんなに自分が愛していたぬいぐるみを抱きしめることさえもできなくなる。「もう大人なんだから、そんなもの捨てなさい」と心ない言葉を投げられたりする。パーソナリティーに縛られない、愛を誰かに向けたり、向けられたりすることが難しくなる。私の大好きだったぬいぐるみは、そうやって捨てられてしまった。自分なりの愛の形も、心の奥底に閉じ込められた。人と会わなくなってもうすぐ1ヶ月が経とうとしているが、何だか最近、突然あのぬいぐるみが恋しくなることがある。意識せずともこの非常事態に心身共に疲弊している中で、「いちばんやわらかい場所」に戻りたい、そんな気持ちがあるのだろうか。ぬいぐるみを抱きしめたら、一瞬だけでも戻れるかもしれない。そう思って、今日もあの子に似た、やわらかいぬいぐるみを私は探し続けている。

画像3

______________________
芝田 遥(しばた・はるか)
1995年、東京生まれ。ニューヨーク大学大学院芸術学部、芸術&公共政策コース修士課程修了。アート・アクティヴィズムを中心に学ぶ。現在、ヨコハマトリエンナーレ2020キュレトリアル・アシスタント。芸術公社2017年度インターン。

撮影:佐藤駿

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?