矢来能楽堂で金春流の円満井会定例能「采女」と「黒塚」を観た。

日時:2020年11月14日(土)
場所:矢来能楽堂

報告:長谷川愛

能は日本の古典芸能のなかでも珍しく女性も舞台に立てるもので、今回は「采女」をプロジェクトメンバーの森瑞枝さんが演じた。「采女」は木を植える若い女性が池に案内し、その池にまつわる話、帝の寵愛を受けていたが、寵愛が薄れたことを嘆き入水自殺した女性の話を語る。実はそれがその女の身の上話であるわけなのだが、後半は僧たちの弔いのおかげで、キラキラの金の神々しい衣装に替わり、誇らしげに言祝ぎの舞をし、姿を消す。多分に成仏したのだろう。能では前半の謎のキャラクターを「前シテ」、後半でそのキャラクターの真性が露わになった、変身した姿を「後シテ」という。森さんが小柄であることもあり、大変可愛いらしい采女であった。

采女はあまり早く動くことはなく、顔には面がつけられており、その動きはなんともロボットのようだと感じることがあった。

能には仏教用語がよく使用され仏教用語に「有情」「非情」という言葉があり、辞書を引くと『有情:仏語。感情や意識など、心の動きを有するもの。人間・鳥獣など。衆生。』とある。その話と関連させれば、AIやロボットの話につながる。あの独特のゆっくりした動きが時にロボットに見える瞬間があった。能面がさらにそれを後押し、ともすればロボットにしかみえず、「ロボットがうまいこと人間のように動いている」ように見える瞬間もあった。このように能はお話だけでなく、演技の部分でも人ならざるもの、生きているものとそうでないもの、という境界を遊んでいるようにも思えた。

一方で「黒塚」は安達ヶ原の鬼婆伝説の話である。山伏たちが今夜の宿を借りようと、山の中のみすぼらしい家に辿りつくと中から、30代ぐらいの女性がでてくる。彼女は糸車をまわしつつ生活の困窮さを謡う。後半ではその女が薪を取りに家を出て行く時に奥の部屋を絶対に覗かないようにいいふくめる。そこでアイ(間狂言:コミカルな役所)が部屋を好奇心に負けて覗くと、人間の骨が山と積まれており、彼女が人間を食らう鬼女であることが暴露される。その後山伏たちは鬼女と戦い勝利し、鬼女は逃げてゆく、という話だ。能の音は「おおう、、ぉぉう」という唸りのような声に大鼓、小鼓、笛、地謡、演者たちの謡や足踏みもそこに加わる。黒塚では更に大太鼓が加わり、途端に祭りのような盛り上がりをみせ、先ほどの采女に比べるとアクションエンターティメント作品の側面が強くなり、動きも速くなっている。

舞台終了後、渡部麻衣子さんと一緒に、能楽師、シテ方金春流八十一世宗家 金春憲和氏、その父であり前宗家の金春安明氏、先ほど采女を舞っていた森さんに能の死生観についてお話を伺った。

能の死生観について興味深かったのは、草木に対して和歌を歌うとその草木が人格を持つことや、死についても「善知鳥(うとう)」という演目では、死んでしまった夫の霊がいるのだが、残された妻と子供は声をかけると消えてしまう、というのでひたすら見るだけであり、一方「清経」という演目では、死んでしまった武士の夫の霊と夫婦喧嘩をするという、能の死生観は多種多様である。
「清経」は武士の話であるが、能は武士に嗜まれて繁栄したともいえ、そんな武士とは命をかけて戦う、死を感じながら、相手を殺しながら、殺されることに怯えながら、生きている人たちとも言える。彼らが能で武士などの幽霊を演じるということはある意味、心を決める準備としての能、死の受容の訓練の一つとして機能していたのではないかと考えることもできる。死に行く者としての準備、残される者の準備として。

演じることは心理診療の場でも使われており「ドラマセラピー」という演劇をつかう心理療法もあるという。それを考慮すると、死を受け入れるための準備もそうであるが、ジェンダー問題でもなにかしらの働きをしていたのではないか。男性が女性を演じる方が、「男性の理想の女性」を作り上げるのに適しているということの他に、男性が女性を演じることにより、女性の気持ちを体験し、男女の溝を埋めて行く作業、もしくはひとときの男性であるプレッシャーから現実逃避するガス抜き的な、そういう社会的機能をもっていたのかもしれない。

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