歯科の中にコンサートホール!?音楽と自然に身を委ねる歯科医【いとの森の歯科室】
福岡県糸島市に、全国各地から患者が訪れる「いとの森の歯科室」がある。足を踏み入れるとまず、グランドピアノが置かれたコンサートホールのような空間に驚かされる。院長の原田愛さんは、音楽をこよなく愛する歯科医なのだ。一時は歯科医を辞め、サンドイッチ専門店とショットバーに勤務していたこともある原田さん。糸島に移住して歯科医院を開いたのはどうしてだろう。原田さんのピアノ愛や歯科医としてのプロ意識を交えながら、糸島で生きる意義を伺った。
糸島で歯科医を開業したきっかけ
歯医者独特の機械音が苦手という人は多いものだが、いとの森の歯科室から聞こえてくるのは原田さんが弾くグランドピアノの音色だ。グランドピアノ越しに見える、糸島の豊かな自然も心地いい。
「コンサルタントの人からは駅前や住宅街で開業するのが良いと言われたんです。でもありきたりな歯医者を作ったって面白くないですし、自分の心の心象風景がこの空間に現れているんです」
鹿児島出身の原田さんは糸島への移住者。以前は福岡市に住んでいたが、すっかり糸島の自然に魅了されたという。
「ここは別荘として買った場所なんです。福岡に住みながら週末はこちらで過ごしていたんですけど、それだったら糸島で開業してお金を生み出しながら借金を返済しつつ、糸島暮らしを楽しみたいと思いました。自然はそれだけで完璧なアートですし、糸島って海と山のバランスが良いじゃないですか」
歯科医という仕事柄、たくさんの人に出会ってきた原田さん。特に驚かされたのは、糸島の住民の人柄だという。
「いろいろな患者様が来ますけど、感性が豊かで魅力的な人柄の方が多いんですよ。今朝は、ある患者様から山芋をいただきました。『先生に山芋を持っていこう』と思って来てくださることがありがたいですよね。ところてんを持ってきてくれた患者様もいました。『歯科医がお昼休みに患者様お手製のところてんを突き出してるって、どういう状況……?』と思うんですけど、やっぱり嬉しいです」
単なる歯科医と患者という距離感では、こうした関係性を築くことはできない。糸島という土地柄もさることながら、原田さんが大事にしているポリシーも大きく影響しているのだろう。
「歯科医って、治療の方向性を誘導することが可能なんですよ。『うちの病院ではこういう治療法を取っています』『こうしなきゃ駄目です』という歯科医もいます。私はどちらかというと、患者様主体の治療を大事にしています。患者様の価値観をちゃんと問診しながら、患者様の希望に近づくことを考えたい。私が持っている歯科的な技術と経験から、何を引き出せばいいのか考えて治療しています」
糸島の歯科医に全国から患者が集まる理由
いとの森の歯科室には糸島の住民はもちろん、日本全国から患者がやってくる。
「診療圏は半径何kmというものでないんですよね。東京だったり、宮城県や奈良県から来る方もいらっしゃいます。全国が診療圏なんです。ちゃんとした治療をしていれば、遠くからでも患者様は来てくださる。しかも治療ではなく、メンテナンスで来られる患者様も多いんです。『メンテナンスなのにどうしてここまで来てくださるんですか』と、東京から来た患者様に聞いたことがありました。すると『先生みたいな歯科医を東京で探すとしたら、20件も30件も訪ねなくてはいけないだろうし、もしかしたら巡り会わないかもしれない。だけど糸島には原田先生がいることがわかっているから』と仰ってくれました。それに『マイルも稼げる』と(笑)」
中の人も外の人も、いとの森の歯科室でちょっとひと息。いとの森の歯科室にいると、ここが歯医者であることを忘れてしまう。「いとの森の歯科室にまた来たい」と思う患者が多いのは、自分自身がこの空間に自然と溶け込めるからかもしれない。
「多様性というのがキーワードです。自分自身が凝り固まった価値観を持っていたら、多様性に向き合えません。『こだわりを持たないのがこだわり』ってよく言うじゃないですか。自分自身に余白がないと、多様な考えを持つ人を受け入れられないですよね。患者さんとのコミュニケーションも、余白から始まって豊かな色彩を帯びていくと思うんです」
ピアノとサンドイッチ専門店とショットバー
ご自身でもピアノを弾く原田さん。初めてのピアノは祖父が買ってくれたおもちゃのピアノだったという。
「4歳ぐらいから弾き始めて、40年ちょっとが経ちました。ピアノが好きなことは微塵も変わらないですね。死ぬ瞬間まで弾いていたいです」
原田さんは患者からの信頼が厚い歯科医でありながら、異色の経歴も持っている。歯学部卒業後、大学の歯学部小児歯科と歯学部病院総合診療科での研修生活が始まった。ところが突然、歯科医を退職。フリーターとして、サンドイッチ専門店とショットバーに勤務することに。
「歯医者になったのは元々、子どもと触れ合いたかったから。ですが大学の小児歯科ではなかなか子どもと直接触れ合う機会がありませんでした。歯科医という業界に疑問を感じるようにもなって、『これはもうピアノを弾く生活に戻らないと心が死んでしまう』と思い、スパッと辞めたんです。『私、ピアノを弾きたいので辞めます』と」
最優先事項は、ピアノを弾く時間の確保。一番大切にしたいことを叶えられ、充実した時間を過ごせたという。
「朝の5時半位から原付で走って、家の近くのサンドイッチ専門店で働くんです。ランチタイムの忙しい時間帯に働いた後、家に帰って午後2時から午後5時まではピアノを弾く。夕方6時から深夜の3時まではショットバー。この生活を1年半位続けましたが楽しかったです。ピアノを弾きまくって映画も見まくりました。あの時間も自分の一部ですし、誇りに思っています」
いとの森の歯科室の中心部にピアノを置いたのも、原田さんにとって不可欠のことだったからだ。
「ピアノは私の心の中で、子どもの頃から変わっていない純粋な部分。その部分を私は大切にしながら生き切りたい。ですから建物の中央に置いて想いを込めました。ピアノがある風景を見ていると、『私、間違ったことしていないよね。今日も誠実に医療しているよね』ということを確かめられるんです」
糸島で叶えた夢の先に広がる、さらに大きな夢
いとの森の歯科室に置いてあるのは、原田さん念願のグランドピアノ。グランドピアノ購入は、子どもの頃からの夢だった。
「グランドピアノのふくよかな音の響きってすごく大事。この音が風に乗ったらどんな感じになるのか、小さい頃からずっと知りたかったんです。グランドピアノがずっと欲しくて、でもそのためには広い空間とお金が必要じゃないですか」
公務員の家庭に生まれた原田さん。実家で過ごした子ども時代は、ヘッドフォンを付けてピアノを弾いていたそう。
「クリスマスには毎年、サンタさんにグランドピアノをお願いしていたんです。ですがサンタにも予算があるらしいことを知って(笑)。『なるほど。自分の稼ぎで買うしかない』と考えてからは、グランドピアノのために頑張って勉強しました」
やがて国家試験に合格し歯科医師となった原田さんは、理想にぴったりはまる土地を糸島で見つけた。原田さんはいとの森の歯科室という形で夢を実現し、ここでさらに大きな夢を描き始めている。
「最近はコンサートホールとしての需要が増えているんです。東京事変にも参加されている伊澤一葉さんが、いとの森の歯科室でピアノコンサートを開いてくださることにもなりました。65席が一時間でソールドアウト。こうしたニーズは多いのですが、空間が手狭なんですよね。いつかは音楽スタジオを作りたいと考えています」
真面目にギリギリアウトを目指すという生き方
歯医者という枠組みに収まらない、いとの森の歯科室の魅力。ここに来ることを楽しみにしている患者も多く、1か月毎に定期健診にやってくる人もいるのだとか。
「いとの森の歯科室が老若男女の憩いの場になったらいいなと思います。音楽や自然があると、優しい気持ちになれるじゃないですか。たとえば子育て一年目の人と子育てが終わって孫もいる人たちが、互いの子どもや孫を『かわいいね』と言い合えるような。実際に患者様同士で助け合いが始まったりしています。待合室でママの代わりに子どもを見てあげる人がいて、その間にママがトイレに行くことができたり。織機で張り巡らしたかのようなつながりが、この場所から自然発生的にできていってほしいですね」
原田さんは糸島の歯科医であり、コンサートホールの所有者であり、地域の憩いの担い手でもあるのだ。
「こういう歯科医がいてもいいかなと思います。私は普通の人間であって、歯科医師というのは自分のスキルの一側面でしかない。世の中に歯医者さんの典型像があったとして、私はギリギリアウトでいたいんです。普通ならギリギリセーフを狙うんですけど、ギリギリアウト。たとえば先日まで、私の髪はちょっと赤色が入った金髪でした。最初は患者様も『原田先生、髪が金色だね!』と驚くんですけど、慣れてくるんですよね。最終的にはモヒカンにしたいと思っています。患者さんにとって、私が風物詩みたいになるのも面白いじゃないですか」
ギリギリアウトという生き方に、原田さんはどんな境界線を描いているのだろう。
「イメージで仕事をしているわけじゃないので何でもありですよ。私は技術で仕事をしていて、その技術がちゃんとしていれば患者様は来てくださる。私は意外と真面目な人間で、そこに自信があるからこそふざけられるんですよ(笑)」
原田さんの心の余白はまだまだ広く、これからもきっとたくさんの夢を叶えていくに違いない。原田さんに会いたくなったら糸島に向かおう。患者として訪れるもよし、コンサートの観客として訪れるもよし。いとの森の歯科室で、原田さんとグランドピアノがあなたの来訪を心待ちにしてくれるはずだから。