医療と制度⑫ 人が生きる意味と高齢者医療
人が生きる意味と高齢者医療
2024年3月27日、私の祖母は101歳の誕生日を迎えた。12年前(89歳)から主治医は私である。私が主治医になった頃は、一緒に食事に出かけたりして普通に生活を送っていた。その後、肺炎・急性腎盂腎炎・大腸憩室炎・うっ血性心不全などを繰り返し、その度に私が治療してきたが、認知症の進行と体力の低下で、現在は鼻から挿入されたfeeding tubeで栄養補給がされている。それでも、施設内で日に数時間は車いすに乗ってテレビを観ているし、以前みたいに声はかけてくれないけれど、僕の顔を見ると目に涙を浮かべてニコっと笑ってくれたりする。そんな時、私が小さいときに祖母に可愛がってもらった記憶が蘇り、自分が愛されていたという幸せな気持ちがふっと湧いてくる。おばあちゃんが生きていれてくれて良かったと思う瞬間である。
「人が生きる意味とはなんなのか?」と考えることがある。認知症になって周りや自分のことがわからくなったら生きていたくない、という人もいる。その気持ちは充分に理解できる。それは、「自分のことがわからなくなったら、それはもう自分の人生ではない」と思うからであろう。
しかし、自分の生きる意味は自分だけのものなのだろうか?私は祖母が生きてくれているだけで、なにか心の安定を得ている気がする。確かに自分を愛してくれる人が生きている。その実感は、私にとってとても大切なものなのだ。
養老孟司さんが「夜と霧」を書いた精神科医・心理学者のV・E・フランクルの言葉を紹介して、「私が生きる意味は私の中には見つからなかった。でも、私が生きていることで誰かが一人でも良かったと思えてくれるのであれば、それが私の生きる意味なのではないか。」ということを述べられている(養老孟司著「バカの壁」「死の壁」ともに新潮新書)。もともと、「私が生きる意味」は自分の中にはなくて、私に関わってくれる人が、もしくは社会が「私に求めてくれる」ものなのかもしれない。今の私には、この考えが驚くほど自然に腑に落ちた。
私は祖母に会う度にこんなことを考える。私の祖母を見て「哀れだ。こんな風にはなりたくない。」と思う人にとっては、私が祖母に行ってきた医療は無意味な延命治療だろう。しかし、その人に生きていてほしいと思う人が一人でもいるのであれば、その人が生きる意味は確かに存在し、その命を守る医療にも十分な価値があるのではないのだろうか?