こだわりの鎖
何かを決める時、
直感とこれが好き!良い!という感覚が芽生えないと長引く。
もうこれじゃなきゃ!と思わないと即決まらない。
よく考えたら同じことを言っている子どもらしき人がいる、つまり、子どもと同じ思考だ。
もう世に言う中年なのに。困った。
その感覚が芽生えないと何が起こるか。
徹底的に調べる。徹底的に調べるまたは検証して統計しておそらくこれでよかろうというものを決める。
ひとつひとつに時間がかかりすぎる。
私はミニマムな人間になりたいのだ。
逆にしか行かない。
そうではない。
真逆にいるから少しずつミニマムを目指すしかないのだ。永遠の大掃除である。
誰のことも本当は面倒だなど言えないほど誰よりも面倒なタイプのあっさり風の硬い皮を被ったタヌキである。
(タヌキは昨今東京にも出て、真夜中に出会した時ぎゃああととても怖かったけれど感動した。)
こだわりはない方だと思っていたが、端から端までこだわりしかないので、こだわりきれない範疇のことにはタヌキを発動するのだ。
それは感覚で決めている。
これはここまでこだわっておいて、それ以上は皮運用皮算用皮着用して来るからちょっとすいません、である。
全く面倒なままだ。
この呪縛から、鎖から、解き放たれたい、解かれたいと願い呪いを解くようにこだわりを少しずつ捨てて行っている。
が、
賃貸の部屋決めに関しては言語道断であった
今までどんなに不動産屋に煙たがられても自分でここや!ここしかない!と思うまで探していたのにこの度何かに急かされて寸前ハンドル切り返しをした為にとんでもない欠陥住宅に決めてしまった。
賃貸歴15年近い中で初のことである。
二度と同じ失敗はしないと心に誓いながら今も住んでいる。
見事な舵の切り替えエラーをしたために鉄筋の音を気にしない部屋にしようという思考がいつのまにか飛び、木造の隣の男の喋り聲が夜になると延々聴こえる部屋に移り住んでしまった。
こうなるともう自分を呪うしかできない。
呪縛と鎖の呪いではなく自分が呪い説が浮上し、行動を振り返り全てはあの切り返しが失敗だったことを理解した。
私の呪縛であり鎖は、私の生きてきた経験則の元備わった大事な道標であった。
それを解いて徹底検証を途中に置いて進んでみたら茨の道が待っていた。
ミニマムになりたいならば直感という道標をより鋭敏にしていくか調査スキルをあげる方が近道かもしれない。
面倒臭さを磨く。鎖を磨く。
最初に戻って言えば、子どもと同じ感性を磨くのかもしれないのでそれはなんだかヘルシーだ。
引っ越さずにあいつの声を消す方法をとにかくまず考えて実行したい。
これこそ面倒、だ。