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妥協の天才
私は妥協の天才。
殊、妥協に関しては、私は人後に落ちない。
だから私は職人にはまるで向いてない。職人は妥協を排してこだわり抜いた先にあるからだ。
だが妥協の天才である私に、こだわりがないわけではない。そもそもこだわりがなければ妥協は生まれ得ない。私にもこだわりはもちろんある。あるところまでこだわりを保持した上で、ひょいと捨てる。それが私の妥協の美学。捨てたこだわりに恋々とすることはない。ある時点までのこだわりを軽やかにぶった切った断面を心から愛でることができる。これが妥協の才能と言わずして何だ。
妥も協もネガディブに使われることなど稀有なくせに妥協だけが「こだわり信仰」によってアンフェアに貶められている。山手線も永遠にぐるぐる回っているようで、気がつけば大崎行きでちゃんと終着駅へ向かう。途中の鶯谷で巣鴨で駒込で降りてウロウロとグリャーチ(ロシア語で散歩の意)すればいい。
こだわり信仰の強いコダワリスト達は、妥協を断固唾棄すべきものとして、排除にかかる。クリエイターたるもの表現者たるものプロの仕事として云々(でんでん)。「妥協を許さない」が「仕事ぶり」の枕詞として無敵にポジティブに機能する世の中は、妥協の天才である私には生きづらい。
だがそんなに焦らなくてもすぐに妥協は迫られるから安心してほしい。できなかったことができていくうちはコダワリストでいられても、できたことができなくなれば妥協の天才のお呼びでござい。妥協の仕方教えます。はいこのタイミングでぱっと手放すそうそうその調子。
かくいう私もたまにこだわりが捨てられなくなりかけることがある。そんなときはヴァーオンヴァーオンとエマージェンシーブザーが鳴り響く。不寛容警報。視野狭窄注意報。筋肉を弛緩して、こだわりを地面にストンと落として一安心だ。
妥協のススメなどしない。
妥協を続けるには相応の決意と覚悟がいる。
しかもたまに妥協を続けることを妥協してあえてこだわってみることもあるほどの倒錯っぷりがなかなかチャーミングでもあると自負している。
私は妥協の天才。
らっきょうみたいにこだわりの皮を脱ぎながら、果ては妥(やす)らかに協(かな)う無へと帰す。
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