「Eスポーツ化」に潰されるな
最近はゲームを「Eスポーツ」として捉え、様々な企業なども介入し、このゲームの界隈が大きく変化している。
本稿では、僕が主に活動しているフォートナイトの界隈の視点から、この「Eスポーツ化」について書いていく。
1. 「Eスポーツ化」
まず初めに、「Eスポーツ化」が何か定義する必要がある。
「Eスポーツ化」は、ゲームをスポーツとして捉える動きと言える。その結果、ゲームにおける「遊戯性」「組織性」「競争性」「身体性」が強化される動きだろう。(スポーツの4要素)
しかしながら、実際にはこれらの要素が均等に進展しているわけではなく、「中身の伴わないEスポーツ化」が進んでいると考えられる。
本稿では、この「中身の伴わないEスポーツ化」と、それが生んだ結果について言及する。僕自身は、ゲームをスポーツとして捉える姿勢に対しては肯定的な姿勢である点は留意されたい。
2. 失われるゲームの気軽さ
最近のフォートナイトの動向を見て感じるのは、ゲームのカジュアルな雰囲気が減ってきたという点。
ゲームが「倫理的価値とは無縁な娯楽」から変わりつつあるとも言える。
これは意図的な結果であり、多くの人にとっては理想的な変化かもしれない。僕も、ゲームの中で倫理的価値が追及されていることは喜ばしいと思うが、その一方でゲームの楽しさも薄れつつあると感じている。
3. 言動への責任
Eスポーツは、ネットで活動する手段の1つと言える。ネットでの活動は匿名性が確保され、自身がどこまで情報を公開するかを決めることができる(はずだ)。現実世界とは異なり、見た目に基づく偏見も少ない。一種のリスクを回避して実力を発揮できる場であるとも言える。
最近のフォートナイト界隈の動向では、「顔出し」が注目されている。某チームの代表さんは、フォートナイト界隈における顔出しの重要性を訴えていた。もちろん「顔出し」は大切なことだろう。しかし、どうしてもリスクが大きすぎる。プライバシー的な問題はもちろん、言動への責任が増す点も指摘できる。
匿名で顔を出さずに活動する際に比べ、言動への責任が増すことは理想的とされる一方で、その結果、コミュニティの面白さが減少する可能性も考えられる。
匿名で顔を出さずに活動するからこそ、このコミュニティには独自の魅力があると言える。
この界隈は、礼儀やマナーがままならない人も、活動の練習をする場所になれば良いと僕は考える。そのためには、言動の責任が大きすぎるとマイナスになってしまう。
4. 過去に戻ることが魅力?
昨今のフォートナイト界隈は「Eスポーツ化」しているのではなく、単なる「スポーツ化」しているという点だ。インターネットにおける匿名での活動は新しいものであり、多くの可能性を秘めている。Eスポーツもその1つだ。しかし、昨今のフォートナイト界隈はそこに逆行している。名目上は「Eスポーツ化」を追求していながら、実際には昔ながらのアプローチを取り入れ、その結果注目を集める。「顔出し」を例に挙げれば、「匿名で顔を出さずに活動できる時代が来たのにもかかわらず、フォートナイトではその利点が享受できない」とも言える。
フォートナイト界隈は、最先端のことを追求するのではなく、昔ながらのアプローチで注目を集め、急激に伸びることができる界隈になりつつある。
その理由について軽く考察してみる。現在のフォートナイト界隈で活動する主要なプレイヤーは主に若者、特に10代が多い。これらのプレイヤーにとって、ネット上で匿名活動することはある程度当たり前のこと、彼らがネットで活動する前には、テレビなどで顔を出して活動する芸能人などに触れ、時折それを憧れていたでしょう。その憧れが今も引き継がれ、結果的に「顔出し」などが流行り始めたと言える。大人の介入も無視できない。学生を中心にしているプレイヤーからすれば、フォートナイトで活動するためにはリスクが伴ったり、時間的な余裕がなかったりするかもしれない。しかし、Eスポーツを専業にする大人たちは、時間と労力を惜しまずに学生の憧れを実現することができるだろう。その結果、浅はかな考えで「顔出し」をする人が増え、たくさんのリスクに晒される。
5. Eスポーツを利用し、搾取する
若者やEスポーツに真剣に取り組む大人はもちろんいるが、中にはEスポーツを利用して子供たちを搾取しようとする大人も目立つ。10代が多いこの界隈は、お金が絡むと簡単に動かされてしまう。企業や大人によって大きく操られる傾向があり、実際に選手たちはゲームでお金を稼げればそれで問題ないと考えることもあるだろう。界隈全体を気にする人は少ないかもしれない。しかしその結果、コミュニティ全体としての魅力や多様性が失われ、衰退の道をたどる可能性もあるだろう。
6. SNSの統制
決して暴言を肯定する気は更々ないし、僕だって野良で暴言厨に会えば悲しくなる。倫理的価値の追求はEスポーツ全体の発展につながるとも考える。しかしながら、最近のフォートナイト界隈では、言動に対する厳格な態度が過ぎるのではないかと感じる。
影響力のあるチーム(およびその代表や運営)が倫理的価値を強調しすぎれば、ゲームとしての面白さや多様性が減少する可能性もある。
他チームを見たことがあるわけはないので、詳しくはわからないが、SNS上での発言に関して徹底的にルール作りなどをしているチームもあるだろう。一部のチームが実施しているだけなら問題ないかもしれないが、その影響力は計り知れず、一種の「正義」や「正解」として界隈内で受け入れられることもある。
一般的なスポーツ(野球やサッカー)と違い、Eスポーツのルールはプレイヤーに依存しがちだ。世界共通の連盟などによる明文化されたルールはなく、ゲームの規約はゲーム会社が、倫理的な側面(マナーやモラルなど)は影響力のあるチームやプレイヤーに依存する傾向にある。明文化されたルールに欠けるEスポーツにおいては、影響力のあるチームやプレイヤーが一種の「正義」や「正解」を作り出し、それに逆らう者は排除されていくことがある。
スポーツにおける「組織性」や「ルールによる統制」といった側面において、「Eスポーツ化」は中身が伴わないまま進み、これがゲームの魅力やコミュニティの多様性の減少に繋がる可能性がある。
7. まとめ
どんどん厳格化されていくフォートナイト界隈、ないしはEスポーツ。もちろん発展するために必要なことも多いが、ゲーム独自の魅力は絶対になくしてはならない。「ゲーム・Eスポーツ」は、他のスポーツでもなくSNSマーケティングでもなく芸能活動でもなく、「ゲーム」であり、「Eスポーツ」なのだ。介入と搾取を企む大人、そして大人に簡単に付いていく若者、結果として動く界隈。
危機感と不満を感じたので、ここでは僕個人の考えを書かせてもらった。
余談ではあるが、
初期のフォートナイト界隈は、お互いが団結し必要な事に応じて必要なだけ活動しており、個々の能力や社会のニーズに基づいて働き利益を共同で享受する共産主義に、ある種似ていたと感じる。
現実世界では叶えられない究極の民主主義、ないしは共産主義が、新しく台頭するネットの世界(フォートナイト界隈)では叶えられるのではないかと、期待していた。
しかし結局は、資本主義的な動きをしてしまっている。
もちろん政治システムと経済システムで比較するのはノンセンスだが、ちょっとここに書いてみたかった。
※本稿では一部、書籍「応用哲学 (3STEPシリーズ 6)」を参考にした箇所がある。
追記:(2024/01/01)
本稿では僕が、「言動への責任は少ない方が良い」と言っているように捉えられてしまうかもしれない。
僕が言いたいのはそうゆうことではなく、例えば顔出しと言ったことを通じて言動への責任を増すことを懐疑的に考えている。
顔出しせずとも、ちゃんと自分の言動には責任を一定持ち、そして匿名でも活動できる。そんな世界ができあがっても良いのではないか。