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ベルリン・フィルを振る法学博士-カール・ベーム


【注意書き】
筆者の完全な主観が多く含まれます。その点はお含みおき下さいませ。

ブラームス《交響曲第1番》ハ短調作品68
指揮:カール・ベーム
演奏:ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
録音:1959年10月、ベルリン、イエス・キリスト教会
レーベル:Deutsche Grammophon

CDジャケット

あらためて述べるまでもないが、ブラームス《交響曲第1番》の名盤として真っ先に挙げられるCDである。頭にドが付くような定番なので、若輩者の自分が今さら個人的な感想をつらつらと書き連ねるのも「屋上屋を架す」ようなものになってしまう。そこで、本稿では指揮者×オーケストラや指揮者×作曲家など、CDを構成する要素を組み合わせた小論としたい。

法学博士にして指揮者

カール・ベームはオーストリア出身の指揮者である。音楽を本格的に学ぶ以前は父親の勧めに従い、グラーツ大学で法律を学び、法学博士の学位を取得している。叶わぬ夢になるが、もし老匠と相対する時は敬称をドイツ語でMr.を意味するHerrではなく、博士を意味するDoktorと呼んだ方が正しい。

ベームが一介の法曹だった一面は指揮者になっても変わるところがなかったようである。その点は吉田秀和ベームを評した文章からも伝わってくる。少し長い内容になるが、ここに引いてみよう。

 ベームの練習での指示をみていると、その内容は、リズムの正確な扱い、特に付点音符、それからクレッシェンド、ディミヌエンド、フォルテ、ピアノといったダイナミックの綿密忠実な扱い、いろいろな楽器の間でのバランス、特におもしろいのはいくつかの声部が重なって和声をなす時と、そうでなくて声部がいわば横の線の流れとして旋律的な役目をもつ時との、そのけじめの厳守等々といったものが主である。要するに、楽譜に書いてあることが忠実に守られて音になって出てくるかどうかを厳重に監督しているわけだが、その監督の厳しい細かさはちょっとやそっとのものではない。

吉田秀和「世界の指揮者」ちくま書房(2008年) p93

上記の評からは、ベームの楽譜に対する「遵法精神」が窺える。そのような感慨を抱いてしまうのは、自分だけだろうか。また、こういう点が似ている指揮者として、日本の朝比奈隆が脳裏に思い浮かぶ。

朝比奈は京都大学で法学部在学中に大学オーケストラに参加しながら音楽の研鑽を積んだが、後年にベートーヴェンチャイコフスキーなどのオーソドックスな作曲家を好んで取り上げたのは、大学で法律を勉強したおかげだと語っている。この点はベームにも通じているように思われる。

ベームとベルリン・フィル

ベーム×ベルリン・フィルの組み合わせは当盤以外にもCDやライブが大量に存在する。演奏で取り上げた作曲家は無論、ベームが得意とした独墺のモーツァルトベートーヴェンシューベルトブラームスR.シュトラウスが中心である。モーツァルトに至っては、40曲を超える交響曲を全て録音している。

個人的に、よく聞いていたCDはR.シュトラウス《ツァラトゥストラはかく語りき》だった。一時期、映画「2001年宇宙の旅」のサウンドトラックに収録されていた演奏である(※1)。

ベームが当盤を録音した頃のベルリン・フィルはヘルベルト・フォン・カラヤンが芸術総監督として率いていたが、当盤を聞く限り、音色にカラヤンの影響はあまり感じさせない。響きは美しくなく、たたみかけるようなキレも抑えめ。質実剛健。泰然自若。そのような四字熟語が想起される。なお、カラヤンが完全に支配したベルリン・フィルを聞きたい場合は前述の《ツァラトゥストラはかく語りき》(1972年)が良いだろう。

より論を進めるならば、ベームの解釈によって造り上げられる音楽は総じて直截的でテンポは速く、響きや動きは固い。いわゆる新即物主義ノイエ・ザッハリヒカイト的な演奏である(※2)。この特徴はベルリン・フィルやバイエルン放送交響楽団など、ベームがドイツのオーケストラを振った時により顕著に示されているように思える。当盤が名盤として長く聞かれる故も、ベームの解釈×オーケストラの響き×ブラームスの音楽が見事に合一したと捉えても良いかもしれない。

ベームとブラームス

ブラームス「交響曲第1番」はベームの愛奏曲だった。当盤以外にバイエルン放送交響楽団(1969年)、1975年にウィーン・フィルハーモニー管弦楽団と来日した際のライブは有名だろう。どちらも基本的に当盤と演奏の性格は変わらないが、オーケストラがウィーン・フィルにもなれば、剛毅さが中和されているように聞こえる。

ベルリン・フィルとブラームスに話を戻せば、ベームは当盤の以前に「交響曲第2番」を1956年に録音している。結果的に残りの交響曲(第3番・第4番)を録音しなかったので、交響曲全集としては完成しなかった。この点を少し掘り下げてみたい。

CDやレコードを大量に制作したカラヤンはベルリン・フィルとブラームスの交響曲全集を生涯で3度録音しているが、その1回目が1963年10月から開始されている。憶測を述べるとすれば、オーケストラと契約していたDeutsche Grammophonでは音楽監督であるカラヤンの企画はプライオリティが高い案件だったと思われるため、仮にベームとの交響曲全集の企画が生きていたとしても、制作物は被ってしまうので、途中で中止になった…こんなところではないか。

もし1963年10月までにベームブラームスの交響曲を全曲録音していたら、ヴィルヘルム・フルトヴェングラーが音楽監督だった1951年に録音したオイゲン・ヨッフムによる全集と、カラヤンの間を繋ぐ全集として一定の価値を持ちえたと思えるがいかがだろうか。

なお、ベームは1975年5月~6月にウィーン・フィルハーモニー管弦楽団とブラームスの交響曲全集を制作した。

注釈
※1 実際は、カラヤン&ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団による演奏が使用された(1959年)。
※2 ベームで最も新即物主義的な演奏は、1966~67年にバイロイト音楽祭で指揮したワーグナー《ニーベルンゲンの指環》になるだろう。

参考文献
朝比奈隆・矢野暢「わが回想」徳間文庫(2002年)

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