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#17 「〇〇させる」を徹底的にやめる(まとめ編)

『ホームスクールをあたりまえに生きてる』エッセイ 第17弾
徹底的に「〇〇させる」をやめるー まとめ編です。
 前編はこちら。中編はこちら。後編はこちら


 さて、間に過去記事をいれまして、『「〇〇させる」を徹底的に辞める』まとめ編です。
 それぞれ「読み・書き・計算」をとりあげ、なんとなくですが、基本の身につけさせなければならない「読み・書き・計算」すらも【させる】意識はないほうがずっといいんだってことです。

 どうして【させる】意識になってしまうのか。
 どうして「読み・書き・計算」くらいはおなさいうちから身につけさせなければならないと考えてしまうのか。

 
 大人になって身に着けていなければならないであろうことを、幼少期に訓練や繰り返しの練習によって身に浸けさせておくという教育の方法論を、すでにおとなたちのからだにすっかり染みついてしまっているからなのね。

 そんなことないよ。

 こころとからだが実感をともなって、「そんなことないよ」ってことが深く腑に落ちるためには、なにが必要だろう。


 それがもうこどもたちの生きるいのちそのものだったかな。

 アンスクーリングって、とくに「終わり」があるのやら、ないのやら、な感じです。だって、人の成長に終わりなんてないんだもの。
 でも、長い時間をかけて今、思うことは、「生き方を自分で選ぶ」ということ。

 「自分で選んでいいんだ」って思えること
 そんな時間がたっぷりあるんだってこと

 アンスクーリングはそういうものでいいなってことかな。


 こどものお手伝いをする

 それが、わたしの役割です。

 ちょっと見えてないかな?ってときに、そっと差し出してみる。
 そこに在るものを見つけるのはこども自身。

 ちょっと走り過ぎかな?ってときに、止まってみることを私自身がやっとく。周りに目を向けるのはこども自身。

 どうしようかな?って思ってそうだなってときに、私はただ笑ってそこに居とく。「大丈夫だ」って思えるといいな。
 
 
 同調するのと、共感するのは違うから。
 そこはしっかり厳しい。お互いにね。


 「こども」という言葉に違和感を覚えるようになってしばらく経ちます。

 「こども」というのは、人の成長過程のうちの早い時期にある人間といだけで、未熟な者という意味でもなければ、教え導かなければならない無知な者というわけでもありません。

 共に、生きていこうよ。

 

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「ホームスクールをあたりまえに生きてる」シリーズを集めたマガジン 2022年5月スタート。 更新中。基本的に全文公開としています。 気に入…

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