「忘れ物をしない対策」なんていらない
わすれもの
私もやります。
なにも忘れていないのに「何か忘れているような気がする」時もあります。そんなときは「落ち着く」ことや「信頼する」ことを忘れているのかもしれませんけど。
「なんで忘れたの?」とか
「どうしたら、忘れないようにできる?」とか
これははっきりいって余計なお世話だなぁと(自戒を込めて)思った次第です。
どうしたら、忘れないようにできるかな?
この問いかけは、自立をうながそうとする試みでした。
自分のことを、自分でなんとかできるように
自分で考える子に
おそらく、そういう考えから口に出る言葉だと思います。
でもね。大人になってもするんですよね。「忘れ物」って。むしろ年齢を重ねていけばいくほど、「忘れる」ことは日常茶飯事になるような気がします。「何しようとしてたんだっけ?」ってなって、何かしようと思いついた場所に戻ってみるなど何度もやったり…しません…?
なんで忘れたのかなんて、そんなのわからないから忘れるわけです。
どうしたら忘れないようにできるかなんて、それは本人にお任せすればいいわけですが、でも、その前に。
自分にはできることがある
そのことは本人が知っていることが大切なのね。
自分のことは、自分で決定していい(自己決定)
自分のことは、自分がよく知っている(自覚)
自分には、自分でできることが、ちゃんとある(自尊心)
なにもできないわけじゃない。(誇り)
なにも知らないわけじゃない。(自信)
これまでに知ったことや分かったことから、できることを、自分で導き出せる。(自己管理)
自分なりに。(自我)
自分なりに成長してきた軌跡は、自分なりの方法で「わかる・できる」「きづく」を、ひとつひとつ検証して、身につけてきたことなんですね。自分で自分を育てているし、成長させています。自分なりに。
だから、その方法までをも、第三者(他人)の方法でおこなうように指導されたり、誘導されたりするのは・・・
「ほっといて!」って感じになります。
言葉にならなくても、なんだか腑に落ちないような気持ちになったりします。どうしてでしょう。
忘れ物をしたの?
ー(傷口に塩を塗られているみたいな気がする…)
どうしたら、忘れないでいられると思う?
-(応答を求められてる?正解を言わないといけない?)
そうなんですよね。質問者が想定する「正解」を言い当てないと赦されないという感覚を覚えるのです。委縮してしまうのはあたりまえな気がします。だって怖いもの。
言い換えれば、これはこんなメッセージそのもの
あなたは忘れ物をする人間デス
あなたは忘れない方法を理解していないのデス
あなたはワタシカラ忘れない方法を学習しなければイケマセン
なぜなら、あなたはなにも知らない、できない、ちっぽけな存在ダカラデス
あぁ、いやだ、いやだ。
「どういう状況に置かれると、ウッカリしやすいか」。
ウッカリするだなんて、あまり人には知られたくないとてもデリケートなことです。だから、自分のなかで、自分でなんとかおさめたい気持ちになります。これって人としてあたりまえの感情なんじゃないのかな。
人に指摘されたくない部分じゃないのかな。
目上の立場からという理由だけで、人から指摘され、外部にあらわに暴かれたくないことをしていいことにはならないんじゃないかな。その態度は「目上の立場になれば、してもよい権利を持つ」というカリキュラムを与えていることになるよね。
人が人として向き合う姿勢、人を人として対等に対話する姿勢は、特定のシチュエーションでのみ実行するものではなくて、常に、日常的に、そうで在るものなんですよね。だから、「こういうときは、こう答える」のような対応例なんかでは「分かっていない」ことは丸見えで、自分と違う立場の人間であっても、「対等だ」と真実、身に沁みているなら、してはいけないことを分かっている気がします。それは感じ取るものだと思いますね。
忘れ物をした。
それは確かにチャンスです。もし、「忘れ物をする」状況を変えたいな!と思うならば。忘れ物をしたとき、罪悪感なんて覚えないでいい!
忘れ物をしない
それはいわば自分探しと同じですから、自分の癖や習慣を見ていくと、そこから工夫や知恵が出てきます。
例えば、
どこかに置き忘れる
それは、あなたが「ここは物を置きやすいな」と感じる場所がそこに在るからです。で、ついウッカリ、そこになにげなく、なにも考えず、置いてしまうなんていうことが発生する確率がぐんと高いというわけなのですよ…。感性で動いているから、そこに明確な理由に言語化するのはなかなか結び付かないんですよね。
ああ、これは自分ならやっちゃうわぁ
…っていう、新たな自分発見・探検ができるので、「忘れ物をする」のは、なかなかどうしてユーモアをもたらしてくれるたのしい授業です。
「忘れた時に、どうするか」
その方法や工夫は、経験によって、人それぞれいろんなやりかたを知っているものと思います。その経験談は誰にとってもとても役に立つことでしょう。
誰でも「こうしなければいけなかった。」「こうでなければいけなかった」という思考のなかにいるときは視野が狭くなっています。自分で視える範囲が小さくなり、そこから思いつけるアイディアは少ないのです。
別の人がどうしたかを聞くことは、「なるほど、そういう世界(なんとかなってる状況)もあったか!」と、まるでパラレルワールドのお話であるかのように、自分では考え付かなかった展開を見聞きすることができるのです。どうぞ、パラレルワールドを体験してみて。
お弁当を忘れた
□買う
□おごってもらう
□取りに帰る
□その他
歯ブラシを持ってくるのを忘れた
□うがいで済ませる
□歯ブラシを買う
□そもそも歯ブラシするのって必要か?検証する
□その他
選択肢を作ることは、自分のなかから掘り出すと同時に、思ってもみないところから得ることも多いものです。
そこから考えて、自分なりの最適解をみつけることは、習慣だし、考え癖です。幾度もそうしてみることで身に付きます。
「こんなとき、あなたなら、どうしてる?」
そんな質問をしてみると、とっても愉快な答えが得られるかもしれませんね。
「どうしたらいい?」は過去をどうにかしたいから出てくるセリフだけど、未来に向かって考えるなら、情報の蓄積・検証それから自分なりの最適解に向かってトライ&エラーの繰り返し。
そんな気がしませんか。
ここまでお読みくださりありがとうございます! 心に響くなにかをお伝えできていたら、うれしいです。 フォロー&サポートも是非。お待ちしています。