見出し画像

ぶじ ですかー?

 ガシャーーーン!

 突然、部屋の向こうからそんな音が鳴ったら驚きます。何があった。どうした?と咄嗟に出る言葉はなんでしょうか。
「なにをしたの!?」
 心配からくる言葉とは言え、聞いている身には(なにをしでかしたのか)と責められているような気にさえなってきます。

「どうした!?」
 身を案じてくれている言葉のはずなのに、罪悪感でいっぱいの心には(どんな失敗をやらかしたんだ?)(なにを壊したんだ?)と言われているように聴こえてしまいます。

 その次に起こるであろう謝罪する場面を想像してしまうからでしょう。

 「無事ですかー?」
 「大丈夫~?」
と、のんびり口調をあえて意識して声をかけています。
 どちらのセリフも、音を出した人間の身を案じるからとも、壊れた物は何かと心配するからとも、どちらともとれます。のんびり声をだしているその間に、冷静になろうと努めているんです。そうなんです。冷静になってみせましょう。どちらかといえば、身を案じる様子でいたほうがいいのではないかしら。

 ヒトは、相手の反応でどうするべきかを学習します。どちらともとれるセリフなら、それに呼応した言動に対して、さらにどういった反応をされるかで、(あぁ、心配してくれてるんだな)とか(えぇ?ワタシよりモノのほうが大事なん?)を判断もします。そのあとでは態度がどちらに傾くか、予想できますよね。ヒトの心は、河の水が流れるがごとしで、決して逆のぼりはしないものです。受けとめてくれるほうへと流れていくものなのです。

 時には、元々、身を案じて発せられた言葉であるにも関わらず、必要以上に罪悪感を覚えて、謝りつづけるこどももいます。そんな時は、その勘違いを分かりやすく正してあげてほしいと思います。
「大丈夫~?」
「ごめんなさいっっっ」
「ちがう、ちがう。ケガとかない?無事?大丈夫?」
 反応の条件付けは根気強く、軌道修正してくれる人の存在はとてもありがたいですよね。でも、その存在が大きいものだとは決して言えないのです。週の6日はそのように自分の身を案じてくれていると感じられる人の間で過ごしていたとしても、週の1日を、それより圧倒的に威圧的で権威のある人物から大切にされない強烈な一言があれば、あっさりと引っくり返ってしまうのです。人は「自分が悪い」と考えたほうが楽だと思い込んでしまう生き物でもあるのです。「人間は楽なほうに流れる」とはまさにこのことを言うのです。自分らしく生き続けることのほうがよほど大変なことですからね。生半可な神経ではやっていられません。本当です。
 厳しい躾けによって⦅正しさ⦆を要求されるあまりに、自分の心身を大切すること以上に正しくあることを優先してしまうという生き癖は、よく身に着けてしまうものです。それは生き残るための本能に通じます。自分の生命活動を守ろうとする防御本能であるからです。ヒトがヒトとして生き続けようとするために、人としての在り方を棄てていくなんていう哀しいことが、どうしてあるのでしょう。本当なら無くてもいいものなんじゃないかしら。

 「ごめんなさいっっっ」と先ずあやまってしまうことの背景には、事が起こってからの《事実確認》という作業をすっとばして、《状況判断》にすぐ取り掛かってしまっているということがいえます。
 例えば、コップを落としてしまった。ケース1
  ↓↓↓
 コップが落ちたという事実
 割れたのか? 割れてないのか? 《事実確認》
  ↓↓↓
 割れている → 持ち主が大変気に入ってるコップである。
(あ、持ち主が顔面蒼白になってショックを受けてる)《状況把握》
  ↓↓↓
(あやまろう…)《状況判断》
  ↓↓↓
「すみませんでした!」 《行動》

 事実確認だけはできるけれども、状況把握が困難で、次に続く状況判断につながらない場合もあります。ケース2
 コップが割れた《事実確認》
  ↓↓↓
 持ち主が登場して、状況を把握した
  ↓↓↓
「無いも無し!? あやまらないの!?」とキレられた。わからない。

ケース3
 コップが割れた《事実確認》
  ↓↓↓
 持ち主登場。
「あぁ、割れてしまったね。これは私のコップで大変お気に入りのものだったのだが…残念だなぁ」とつぶやく
(持ち主が大切にしているコップを割ってしまった!)ここで初めて《状況把握》
  ↓↓↓
(悲しませてしまったのだ。あやまるべきだ。)《状況判断》
  ↓↓↓
 「コップを割ってしまいました。すみません。」《行動》

 大人のセリフのように書いてしまいましたが、こどもとのやりとりは、日常茶飯事でいずれかのパターンだなと感じます。さらに言いますと、《状況判断》→《行動》に至るプロセスは心理的圧力によって阻害されることすらあります。すべて大人が、大人の態度を示すことができるかにかかっているといっても過言ではないといわざるを得ないと思っています。これをはねのけられるこどもはそんなにいないことでしょう。たまにおります。やんちゃで、たくましくて、したたかで、なんともこどもらしいこどもだといえます。こどもらしいこどもが少ないなんて、いったいどういうことなのでしょうか。こどもらしいこども時代をおくらせてもらえなかった大人が増えたのかもしれません。

 《状況判断》というのも反応パターン学習があてはまっているかどうか、ですよね。あやまるというのは、相手へのおもいやりからくる言動です。哀しみ傷ついた心を癒してあげたいという人の自然な行動です。弁償するなどは対応であり、形であり、気持ちとは別物です。心を伝えるという行動を導きまなんでこなかったこどもは、これがなかなか理解できません。心を伝える行為を、ただ単に形式上のソーシャルスキルとして暗記してきただけで応力のキャパシティーを満たしてしまったこどもも、やはり「心を伝える」の意味が理解できていないように見えます。いずれも「忙しい」「時間が無い」「〇歳ではここまでできるようにならなければ」といった社会の価値観が生んだ結果ではと思っています。

 《事実確認》をすっとばして、いきなり《状況判断》という生き癖は、相手の心の内を自分勝手に想像して、自分勝手に自己判断してしまうことにもなりえます。よほど人間関係に熟練した人ですら間違えるというのに。すると話がかみ合わないまま、丁寧な態度のつもりが慇懃無礼に見られたり、なんともないと自己判断した結果、尊大な態度だと責められるということにつながりかねないわけですね。

 事実は事実、ありのままに見る習慣を

 そのためになにがあっても動じず、のんびりと、言うのです。


 だいじょうぶ~?
 なんか、あった?
 無事ですかー?

 例え、心の内はハラハラドキドキしていても。

ここまでお読みくださりありがとうございます! 心に響くなにかをお伝えできていたら、うれしいです。 フォロー&サポートも是非。お待ちしています。