見出し画像

ゼロからは生まれないよ

「ゼロから始める」
「なにもないところから始める」

 最近のフレーズはそんな感じのようです。
 あれ?そういう場面で使われるフレーズって「1から始める」じゃなかったでしたっけ?でもなんだか変な感じがどうしても覚えてしまいます。「無から有を生み出す」なんて可能なのかしら。無ってなにかしら。「ゼロ」「0」を、たぶん「無」という意味にはとらえていないのでしょうね、と、いきなり結論が出てしまいました。発している言葉にまとう個々のイメージに私はとても惹かれます。

「ゼロから」「なにもないところから」という言葉を使う彼らには「ゼロ」や「無」はどのように見えているんでしょう。何も無いように見えているのでしょうね。じゃあ、彼らにとって見えているものってなんだろう?

・カタチのあるもの
・手に触れられるもの

  そういうことなのかな。
 私がみている「0」はこんな性格をしています。

 「ゼロ」はまったくの無。何もない状態。
 「れい(零)」は、有が拡がる可能性を持つ状態。

 日本人になじみのある「0」は、「れい(零)」じゃないかなと思うんですね。僅かながらそこになにかが在るんです。それは「零落」という言葉に表せるような過去の栄光の残滓かもしれません。それから「零れる(こぼれる)」なんて、なかなか漢字で書いた記憶がないのですけれども、なんとも可愛らしい。雫がぽつんと、うっかりはみだしてしまったようなコロコロとしていて、ちいさいけれどそこに命が宿っているのを映しているかのよう。うっとりしてしまいました。

 そんなちいさな「零(れい)」は、見えないけれどもあるんだよという金子みすゞの詩を思い出させてもくれました。

 「0」という数詞は、数学上あとから誕生した概念だそうです。つまりそれ以前に「0」という表記は無かったのですよね。これもまたおもしろい。無かった表記。けれども概念として表現するに至ったんですね。その概念にとても興味があります。

お皿のうえにのっているクッキー5枚。みんな食べちゃったの。合計何枚?

…なんて言葉としてはまったくおかしいのですけれども、計算の文章問題にすると意味としてはこうなるのですから、おもしろおかしいですね。合計0枚。お皿の上には「何も無い」のですからね。


 お皿の上にはなにも無いけれど、〇〇ちゃんのお腹のなかにクッキー5枚分のエネルギーは入ってるよ。そこに形を変えて、移ってるね。クッキー5枚分のエネルギーを〇〇ちゃんは何に使うのかな?

  私なら、やっぱりこんなお話にしてしまいますね。
 見えないけれどあるんだよと、めぐりめぐって存在しているものを忘れないでと伝えたい。
 なにもなかったように思えたかもしれない。ひとりでがんばりつづけてきたと思っているかもしれない。だれも助けてくれなかったと孤独を感じるときもあるかもしれない。でも、自分では移動できないはずの赤ん坊がここまで大きくなったのなら、それはどこかでだれかがあなたを抱っこした事実があるんだなって想像するのです。そこにはなんの感情もないようにみえても、それは「零(れい)」なのね。だって「落とさない」くらいは思ってたはずなんだもの。それでいいじゃない。事実だわって思うんです。それで充分だわって。自分でつくれるはずのないごはんは、どこかのだれかが作ったものにはまちがいない。「作ってくれた」とまでいかなくてもいい。「作った」という事実があるっているだけで、事実が存在する理由としては充分なのよ。理由や感情は、後付け(オプション)ってこと。


後付け(オプション):理由と感情
過去でも現在でも未来でもご自由にお使いください
奥行と幅を持たす飾りつけでございます
どうぞお好きなように


 目に見えない分子が、クラスター(集合)となって、相互に影響しあうことで動き(波動)に一定の規則性を持つでしょう?バラバラなものが集まると、不思議と同じ動きをするようになる。同じ方向に進むようになります。その動きは、それぞれに見える大きさが違ってきます。肉眼で見えるもの、顕微鏡で見えるもの、感じるレベルで見えるもの、可能性というレベルで見えるもの…。過去も現在も未来も、同じラインにのって区別もなくなっていってしまいそう。
 肉眼に見えるカタチになるまで、そこにすでに「在った」んですね。
 

ここまでお読みくださりありがとうございます! 心に響くなにかをお伝えできていたら、うれしいです。 フォロー&サポートも是非。お待ちしています。