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休校要請から~その①学習支援サービス無償提供~

 2020年春。新型コロナウィルス対策として、首相が全国の小中学校の休校要請を出しました。後、各自治体で柔軟に対応するようにと添えられた模様です。もしも要請の内容に反して、「休校しない」となれば、その結果を背負う各自治体の首長や教育関係各位の責任を問われるであろうことを考えると、事実上の「指導命令」と受け止め、粛々と従うしかないと方針を決定するところが多いのではないかと思える事態です。

 休校が実施されると決定が広まっていく中、学齢期のこどもを持つ家庭から、あるいはその周辺で支える立場にいる人々から、さまざまな声があがっているのを目にします。どれも「気持ちは分かる」と、経験からも言えることですが、それでもなお、同じことを言いたいだろうか・するだろうかと自問した時、違和感を覚えました。それが、上のつぶやきです。

関連note;
休校要請から~その②公教育と平等性~
休校要請から~その③「休校延長」と「学校再開」の間~
休校要請から~その④ 休校特別措置「出席停止」ってなんですか?
休校要請から~その⑤ 「休校特別措置」と「不登校支援の在り方」の狭間で
休校要請から~その⑥ リモート学習と家庭学習の発展(前編)

親の願いをかなえる魔法BOX

学習・知育モバイルアプリのシェア

学習素材のシェア(ダウンロード・プリントなど)

Web学習プラットフォーム無償提供(Edtech「未来の教室」事業者)

 いずれもホームスクール暮らしの家庭では親近感を覚える情報ばかりです。ですが、その情報を得る動機、得たことによって覚える安心感を生んだ根本にある不安の内容が、ホームスクール家庭のそれとは違う印象を受けます。

 ホームスクール家庭では、これらの情報を「こどもが求めることを具現した結果、必要なこと」として求めるものです。学びと探究を求め、自分に合った方法で学び習い進めることができるということは、「あなたが現在、「できていることはコレです。できていないことはコレです。次にコレに取り組むとよいでしょう」という個別最適化された学習ではありません。
 自ら、思考し、挑戦し、失敗し、また考え、やり直す充分な時間があることが自由なまなびの環境であると私は考えています。興味関心のおもむくまま、「こうしてみたい」を繰り返し、指導要録やタイプ別指導書なんていうものには決してありはしないものです。ひとりひとりが自分なりのやりかたを試しては、「違う」ことに自ら気づき、新たな方法を発見しては、また挑戦する時間が思う存分あることです。
 「なにをするか」は、教科に限らないし、教科学習は活用するものではあっても、それを身につけるためのモチベーション作りが学習の工夫に必要だというものとも違っています。
 大人になるまでに身につけてほしいことは、さほどみな違いは無いように思います。

探究心や好奇心を持って、学び続けること。
多面的に捉え、多角的に思考を試みて、多様な価値観への理解を深めようと歩み寄る姿勢を持つこと。
哲学・信念を持った誠実な態度でいること。

 そういったことではないでしょうか。つまり人間的な深さと魅力ということです。これらを身につけていく機会には、「学校で学ぶことを勉強する」以外の場面でもたくさんあります。もちろん「学校で学ぶことを勉強する」過程でも、知り得ることでもあると思っています。なぜなら、それは本質的なことに近づくことを意味するからです。
 誰もが、何かを通して、本質に近づいていくことに、なにかしらの意味を見出すように思えるのです。


School at home 爆誕

 休校要請のニュースを知り、私がまず思ったのはスクールアットホームを実践する家庭が増えるぞということでした。

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 スクールアットホームは、いわば学校を家庭で再現するようなものです。国が定める学習指導要領い沿った学習を、いわゆる「学校」と同じ授業スタイルで進めていくものですから、学習の主体はこどもには無く、指導者にあります。指導者がこどもに身につけさせるべき内容を備えています。学習者がどれだけ身につけたかを知るためのテストがあり、評価があり、指導者が考える学習内容を、決められた期間に、決められた課程を踏んでいくことで短いスパンでいくつものゴールが設定されますが、それらは学習を飽きずに進めさせるためのひとつの工夫ともいえるし、目標を失わずにやり続けるための目標設定といえます。
 そういった環境は、学校のありかたが唯一で、「こどもが、こどものうちに(年齢に応じて)学ぶべき学習内容がある」という考えや、「こどもは指導しなければならない」という観念などが思想として流れています。

 もっともこの学習スタイルは、すべて否定されるものではありません。例えば習い事がそうですし、技術習得が目的の場合は、師がいることや型(カタ)を身につけて道を極めていくこと(守破離)は、理にかなった学習環境であるといえます。ひとつの才能が導かれ、開いていく道程といえるでしょう。しかしながら、とりわけ幼少時期の限りの無い可能性にあるうちには限定された才能にのみ「適正化」され、道のりを「最適化」され、「効率的」で「生産的」であることが望ましいとは思えません。


違いは紙一重

 デスクーリングは、いわば「学校信仰」からの脱却を意味します。「こどもが学校に行けなくなった」状況に対面した家庭がいちばんに考えることはなんでしょうか。「こどもが家に居ること」ではなかったと思います。「こどもが学校に行かない」ことでしょう。「こどもが学校に行かない」というたったひとつのことから、いくつもの事柄が派生して、そのどれもが〔本来ならなかったはずのこと・考えなくてもよいはずだったこと〕が生じます。「こどもが家に居る」は数あるうちのたったひとつです。〔いろんなこと〕のひとつひとつが、家庭それぞれによって、重要度は違っています。

 確かに突然の休校要請に伴って、「こどもが家に居る」ことに重要度がおかれる家庭では、抱える悩みに共通する点はあるでしょう。そこには不登校もそうでない場合もなんら関係ありません。逆に言えば、不登校であってもそうでなくてもそういった共通した悩みで話を聴いたり、共感を覚える場面があるにも関わらず、なぜか不登校というだけで、壁を作ったり、作られたりしてきたのです。互いにです。そのことにこそ気づいてほしいと思います。

 「こどもが学校に行かない」から派生するすべてのことが、「こどもが学校に行かないから」という理由で押し込まれてしまい、同じ「不登校のこどもを持つ家庭同士でしか理解し合えない」状況を自らあるいは外からも作ってきたのです。たったひとつの〔カテゴリ〕で、共通項も皆すべてそれに依存するものとしてひとくくりにされてきたのです。それは根本的なことでしょうか。「こどもが学校に行かない」家庭が持つ悩みのすべてが「こどもが学校に行かない」から起こることだとされてきたのですね。

 本当にそうでしょうか。


デスクーリングを経ずに、「スクール」化する家庭で起こること

 幸いなのは、平常時でも「こどもが学校に行かない」を経験した家庭のほうです。すべての家庭がそうであるとはいえませんが、少なからず、学校環境や学校生活に疑問を持つ家庭はいます。そこから価値観の転換というプロセスを得る機会があります。

 しかし、今回の休校要請ではどうでしょうか。デスクーリングというプロセスを踏む必要性などありはしないのです。学校社会、学校環境、学校生活疑問をもつ必要など感じる必要はないのです。ただ「学校閉鎖」に伴い、学校で授業を受けない代わりを家庭が引き受けるという事態です。まさにスクールアットホームをせよ、というわけです。そのために喜ばれる学習カリキュラム・ツールです。学校が復活するまでの間の過ごし方が求められているのです。

 「こどもが学校に行かない」という状況をめぐって、学校主体からこども主体へとシフトチェンジした方々は、多くを経験から知っています。

こども(ひと)は「教えられる」ことよりも、「教える」ことが大好きです
こども(ひと)は注意されることよりも、気づかされることよりも、みずから発見し、みずから気づくことに力を感じます(どんなにちいさなことでも)
こども(ひと)は人を助けることによろこびを感じます(お礼を言われなくても)
こども(ひと)はひとりの人間として尊重される存在です(言葉に転換する表現はつたなくても心があります。感情があります。)
こども(ひと)にはやりたいことがいっぱいあります。(止められてしまうことで、やらなくなるだけです。)
・・・ほかにも、たくさん!こども(ひと)ってすばらしいですから。

  目の前にいるこどもをみてきたからです。その声に耳を傾けてきたからです。その輝く目で見つめ返されてきたからです。

 皮肉を言うようですが、休校のその後、懸念することは勉強嫌いになる子が増えることと、親子関係にひびがはいることです。


学校に行けないんだから、家で勉強しないとダメでしょ!
勉強している時間でしょ!
勉強していないと学校に行ったら困るよ!お友達から置いてかれちゃうよ!

 学校に行けないことへの焦りからそんなセリフが口から飛び出してしまいそうになったりはしないでしょうか。「学校に行っているのが本当なのに」と思う余りに・・・。

 できるわけないでしょ!
 ほら、言ったでしょ。やったことがないんだから、もういいからさわらないで。

 手伝いをさせる(こどもが主体ではないが、”主体的にやらせよう”と考えがち)ことは、忍耐力が必要です。手伝いをしてもらおうと思うと「自分でやったほうが100倍速い」と感じてしまうものです。
 家のことを知る・学ぶ機会ととらえれば、「できるはずのこと」や「まだできないこと」ではなくて、「今から学び習う事」として一緒に愉しむことができます。手先の器用さがうながされたり、手順を自分で考えてみることや家事(仕事)の目的に気づくなど学習の機会はたくさんそこにちりばめられていて、まるで宝探しのゲームのようです。


もしも我が家が・・・

 我が家では休校になっても、この日常にはまるで変化がないものですからできませんが、もしできるとしたらやってみたいことがひとつあります。それは学校ごっこです。

 ルールは簡単。「こどもが先生になる」ことです。
一日を時間割通りに進めるとしたら、授業では、「あなたの先生だったらどのように教えるか。」をそっくりそのままやってもらうのです。親である私は生徒役になって質問をすることでしょう。出された課題は解いたら、「先生」に応え合わせをしてもらうのです。そして、どうしてそんな答えになるのかを教えて欲しいと思います。
 学校では何をするんでしょう。きっと給食の時間があって、掃除の時間もあります。廊下や大きな窓は無いけれど、家を校舎に見立てて、やってもらったらどのようにこどもはしてくれるんでしょう。ワクワクしてきます。
 給食はどうしましょう。給食のメニューのうち、こどもが知らない作り方や手順は、私が黒子になって手伝ってみるでしょう。
 給食はどうやって配るのかしら。どうやっていただくのかしら。いただいたらどうするのかしら。学校ではどうするのかしら。みんなとどうしているのかしら。

 そして、それからこの次がもっともやってみたいことです。
学校が終わって、下校して、家に帰ってきたあとのことです。こどもに親の役をやってみてほしい。私は生徒役から家に帰ってきたこども役になります。
 いつも私がどんな顔をして迎えているか、どんな声をかけているのかを観れるような気がするんです。

 小さな子のままごとってそのままそっくり家庭でのできごとが再現されますよね。そういったことが起こるんじゃないかなぁと。それはうまくいきすぎでしょうか。


こどもとの時間ですよ

 こどもは感じています。
 親御さんが「困っている」こと。

自分が家にいたら困る?迷惑?大変?いや?楽しくない?うれしくない?

 親の声のトーンから、表情から、言葉の端々から、態度から、丸ごと受け止めています。時には見えない不安が、ありもしない不安を引き寄せてしまうことだってあります。

 きっと、こどもたちだって不安は少なからずあるのです。一方で「家に居る」楽しみも期待も大きいと思います。


 どうかお願いです。

 「本当はするべきこと・やるべきこと。やらねばならないこと・させねばらならないこと」などと考えて、こどもの〔今〕の時間に制限を与えないで欲しいのです。
 せっかくなのですから、こどもとの時間をどうしたら楽しく過ごせるのかを、こどもと一緒に考えてほしいのです。こどものアイディアを積極的に採用してみてほしいのです。きっと驚きと発見があります。
 耳を傾けてくれるという安心感があれば、伝える言葉は口からどんどんあふれてきます。きっと、どの家庭でも違ったアイディアが提案されます。なぜなら、親子はみな違う関係を持っているからです。家庭の中は、どこも異なった環境を持っているからです。
 家庭の数だけあるホームスクールとよく言われます。同じです。家庭の数だけ、この「休校期間の過ごし方」はあるはずです。

 本当にこれを好機とするのは、ひとりひとりの想いそれぞれです。

 どうか。たのしんで。
 毎日を、笑顔で過ごしてほしい。


アンスクーリング・ファミリーからの提案でした。
ここまで読んでくださりありがとうございます。


 ホームスクーリング・センターkoakgeは「ホームスクールってなんだろう?」を考えるきっかけになればと思って作っているホームページです。ノウハウはありませんが、10数年のホームスクール暮らしで活用したこと、頭の中で整理されたことのあれこれをまとめています。
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