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さんすうのおもしろさ

 「さんすうができる・わかる」って、計算を解くことだけでしょうか。アンスクーリング暮らしからまなぶエッセンス。今回のテーマは「さんすう」です。

Essence:概念を理解する

 家庭学習というと、教科書や参考書とノートをダイニングテーブルの上にひろげて親子で勉強しているイメージがあるでしょうか。「さんすう」に限っていえば、わが家では計算問題を解いているとか、ノートに書いていることはありませんでした。

 「算数」って、元は「算術」と言いましたね。算術というとなんだか格好いですね。術なんですね。算術というと算数よりも数学の色合いが濃いように感じます。数学という学問であり「数・数値」が持つDNAを明らかにしていくようなそんなイメージがします。ここでいうDNAとは、見えないけれどもそこにある約束事。そんな感じです。

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まなびあい>学校教育制度・教科科目

  学校教育では、文科省が出す学習指導要領に基づいて授業内容が展開されています。これは原則にしなければならない内容ではなく、ガイドラインとして参考にする位置づけなのですが、実際には原則的なものになっています。教科書には単元があり、教科書ごとにやや順番の違いがあり、教室により進度が異なる場合もありますが、進めていく順番、授業のねらい、身につけるべき知識が決められています。しかし、こういった学習スタイルどのように決められているのかについて知るには歴史を紐解くとその答えに近づきます。

『数学の学び方・教え方』遠山啓
序章
 答えは同じでも:算数の教え方はたくさんある
 保守性:教え方の技術、教育技術はなかなか変わらない
 歴史:「和算」から「洋算」に
 黒表紙:30年間同じ教科書の絶対的な権威
 生活単元学習:アメリカに倣い
 現在の制度:指導要領の拘束力が高まる

 「基礎学力」という言葉がありますが、本当に教科書に沿って学習が進められていくことや決まった指導内容が「集団教育だから」という理由だけで変えられないといった環境で、果たして「基礎学力」はすべての生徒が身につけられる機会になっているのでしょうか。学校において、教育環境と学習環境は「誰によって」決定されているのかがよくわかる一冊です。そして学校で学んできた親世代・祖父母世代にとっては疑う余地もなかった「算数」です。

 算数を身につける技術は、ありとあらゆる方法が世間で知られてきたような気もします。しかしそれは大抵「解く技術」「暗記する技術」であって、「算数を知る・理解する・学ぶ知恵と工夫」ではないように思うのです。学力の低下が懸念され、足し算の方法も事細かな指導内容にすらなりました。私が子どもの頃は足し算を解き続けていると、ふとそこにある種の法則性を見いだすまでにいたります。そこから自分なりの計算の仕方が生み出され、さらに学習が進むにつれ、また法則性がブラッシュアップされる、そんな感覚でした。算数が得意か不得意かの違いは、この勘の良さの違いにあらわれていました。そして子どもの目線で教え合うことで、わからないところがどうわからないのかを理解し、教え、学び合うことができる空間が教室だったのです。ところが、その「生みだす」工程すら決まった方法を指導されることになっており、考える機会も、仲間と学び合う機会も失われたように感じています。我が子の話によると、小学校の授業時間には「先に終わった人が、まだの人を手伝う」時間があったそうです。解き方の理解を求める子もいれば、とにかく正解を教えろ、答えと書くべき式を教えろと迫る子もいたのだとか。「回答を書くのを早く終える子」がどちらかなのは一目瞭然ですが、「問題が解けるようになる」かどうかも分かれ道のような気がしますね。時間制限がなにを意味しているのかの取り違えも起こっているような気がします。

 《時間制限の意味》
 物事を時間内完結するまでに求められる判断力と決断力
「なにを、どの程度、どこまでカタチにすればいいか」
完成度を設定する
・許された時間はどれだけあるか
時間配分を決定する
・「できること」「できないこと」を見分ける
・「できないこと」を決め、「やること」の線引きをする

 このようないわば生きる上でも必要になる知恵と工夫が、時間制限のある試験を想定する体験によって学びます。ただ単に試験をする。試験に合格するだけではないのです。ところが実際にはどうなっているでしょうか。「できるだけ早く、できるだけ正確に、そのためにはできるだけ多くを暗記して、解けるものから先に…」といった小手先ともいえる試験対策技術のオンパレードになってはいなかったでしょうか。私はこれをただ「モッタイナイ」と感じてしまうのです。試験に合格するよりも「そこから何を学んだか」に注目したくなるのです。ですから、失敗も成功もまったく問題ではないのです。もし不合格であれば、またチャンスが巡ってくる、つまり「もっと学べることがある」というワクワクにつながります。

 足し算であれ、引き算であれ、そのもっともシンプルなことも、追究すれば哲学です。そのおもしろさがたまらなく魅力なのです。この魅力は、およそテキストでは伝わらないものと思います。
 「手のひらひとつ分の泥団子がひとつ。もうひとつ。」
 「もう少し大きなのがいいな。泥を足しちゃおう。」
 「ふたつをあわせて大きくしてしまおう!」
 「泥はこれだけしかないけど、泥団子にしてみんなに分けたいの。」
 この思考のどこかに数の概念の理解があり、足し算があり、引き算があり、掛け算があり、割り算があり、分数があり…と、包括的にすべてがつながっているように思うのです。暮らしに必然的に存在する行動です。知識として教えられて理解するのではなく、暮らしの一部として知っているものを、算数という思想と哲学に捉え直すときが「学問」を追究するときなのではと考えています。
 「暮らしの中から算数を学ぶ」と言い表すと、例えば「泥団子遊びのなかで算数的技術を学習する」という意味にとらえられがちかもしれません。「泥団子を算数を視覚化したツールにする」という意味に思えるかもしれません。でも、ちょっと違うんです。



 
三重苦のヘレン・ケラーが最初にただのものまねでしかなかった指文字が、幼いころ水浴びをした記憶とつながったその瞬間に、指文字がなにを意味しているものなのかを悟ったこと。算数はまさにそういった「概念と記号をつなげる方法」なのだと知ることのほうが、より人生を豊かにする学びになるのではないかと思っているのです。だからこそ遊びが必要で、体験が必要で、考える時間が必要なのです。
 概念を表す記号は「言葉」です。言葉は記号と音で成り立っていますが、それが概念であることを理解することで使いこなすことができます。ただ音と記号の羅列だけではそれが何かを理解することはできません。会話のなかに何度も同じ音が登場することに気づき、その音が飛び出す状況(シチュエーション)から、だんだんとその音に意味があること、その意味が何であるかを学習していくのです。だから言語を使うには会話が必要になるのです。


 算数という概念を身につけるには、会話・対話が最高の授業ではないかと思っています。ただしそれが数学という学問に結びつくには、今度は、算数や数学という技術を実践する機会が必要です。そのためには環境が必須です。料理・片づけ・出かけるといった機会に、道具を使う・効率を考える・計画を立てるといった計算が必要になります。なにをするかで、どれだけの計算が必要なのかが違ってくるでしょう。その環境は、すべての人がすべて同じように整えることは不可能です。親ができる範囲の限界もあれば、本人の人生のなかでどういった環境に出会うのかにもよります。そこからは環境に甘んじ、委ねるしかないものと思っています。
 大切なのは、どんな環境であれ、考えて判断する人になること。そんな風に思っています。 

 自由な学びとは何か。そんな話になりました。



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