雨が降ってるから「知りたいな」と
外は朝から絶え間なく大雨が降っています。ふと、16歳次男が『雲のできかた』に興味を持ちました。
伝えたいことを伝えるために、言葉を選ぶ次男。
その言葉をひろいつつ、頭のなかで「これかな?」と思いながら、次男の知りたい「コレ」を探り当てていく私。
マガジン『ホームスクール、まなびのエッセンス』
11ノート目
Essence ある時は察し悪く、あるときは察し良く
「なにが知りたいか」
思いのほか、これを他人に伝えることは骨が折れる作業なのです。まずは自分の頭の中にあるイメージ映像をまとめることから始まりますし、そこから「伝える」内容を言葉にして口に出すというプロセスまでが1セットです。
イメージしている間に、自分の思考があちこちと迷子になってはいけませんし、伝える単語や文章の組み合わせが違えば、伝えたいことは伝わりません。
同じ時間、同じ空間を共有しているので、ある程度「汲み取る」ことは可能ですが、あまりに察する能力を親が使いすぎてしまうと、先回りすることになり、先のイメージをまとめる力、思考を整理する力、言葉を構成する力を育む機会が奪われて行くかなと思いますね。あえて察しの悪い親で居ることで、思考力や読解力、対話力を引き出そうというのも、暮らしのなかの仕掛けとして実践してきた知恵と工夫です。
さて、今回は「察し悪く」する必要はない場面です。そうしてしまうと、「思考をまとめる」「言葉を紡ぐ」ことに気をとられてしまい、肝心の「知りたい!」の先に進むことができないからです。
中学校教科書は使える
「雲のできかたね。それなら、これかなぁ・・・」と取り出したのは中学理科の教科書です。
どうやら「水蒸気から雲が発生する仕組み」を知りたいようでしたので(具体的にどんなふうに説明しようとしていたかまでは覚えてなくて残念。ただ私が読み取った、翻訳した結果がこれでした。)
教科書を漁っている時に、18歳長男が言いました。
「口で説明したらだめなの?」。
「ん~。図があったほうがいいなぁ」と私。
教科書を目に通している間に、長男は準備を始めました。
「空のスプレー容器はない?」「これ、いいかな・・・」
我が家にはアロマスプレーを作るなど、なにかとスプレー容器があるので、そこから使えそうなものを探してきました。基本的に面倒くさがり屋の長男ですが、「これをしたい」となると行動は早いですね。
(ははぁ・・・水滴が落ちる様子を見せるつもりかな?)
窓にスプレーで水を吹きかける長男に、私と次男が同時に声をあげました。
「あーーーーっっ!!」。
「え!? なになに?」と驚く長男。
はい。朝から次男がその窓をきっちり満足ゆく程に磨き上げていたのでした・・・。外側も桟までもきれいにしていたので、そのあとから激しく降ってきた雨がたいそう気になり、それで「雲・・・」の発想に至ったようでした。
「あぁ・・・、ちゃんときれいに拭き取っておくから・・・」と長男が説明を始めます。どうやら視覚的に飽和水蒸気と露点を伝えるのが目的のようです。なるほど。一か所をスプレーで噴霧し、ある点を超えると水滴となって下に落ちていく様子。あくまでイメージを伝える手段ではあるかもしれませんが、とても「わかりやすい」説明なのではと感心しました。長男は特にこの「説明力」に優れていますね。よく思います。
それからなぜか「惑星の構成」に興味が飛びました。
地球の内部、マントルの図を見つけたので、とりあえずそれを渡し、次男が眺めている間に、次を探し当てました。少しでも「探しているのを待つ」時間を作りたくなかったのです。
惑星の大きさがいまひとつ実感が持てないようでした。実感を持ちたいとはなかなか壮大な希望です。長男とも「それはちょっと難しいな・・・」と目を合わせながら、ちょうど最近、私が読んでいた本を開き、長男と見ていました。
同比率の大きさと距離の太陽系惑星の模型を作るのは、難しいでしょうけど、なにかのかたちで一部でも「視覚化」してみたいものですね。地球46億年も「長さ」におきかえて視覚化することもできますから、それもやってみたいです。
惑星の構成は、「求めていた」ことにドンピシャだったようで、いくつかの問答を繰り返し、水星の気温差の大きさと公転などを長男から説明を受けていました。
さて、その合間に「地球の空気の層・・・みたいな・・・」とあって、「成層圏とか?オゾン層とか?」と「求めていること」がなにかを探っているのですが、どうも外れている様子。教科書を再び開いてみました。
気団、前線。それから雲の名前まで。どうやらこれがヒットしたようです。私もとても興味深く読みました。(雨のあとにくる雲、雨が降る前触れの雲?)と、日頃眺める空がもっと楽しくなりそうでした。
それから「人間はどれだけの暑さと寒さに耐えられるんだろう?」なんて話から、夏の暑さでヒトのたんぱく質が固まって死亡する例や、防護服まで会話が拡がりました。地理の教科書も取り出しました。
・・・と、ここまでで頭がいっぱい。地理の教科書までは手に取りませんでした。
アンスクーリングで大切にしていること
集中力が持続する「ここまで!」とみずから打ち止めできることもアンスクーリングのよいところかもしれません。計画(時間割)・予定(スケジュール)といった習慣からは基本的に離れていますから、なにより自分の感覚で時間配分やなにをするのかを決定することができます。これは「思いつき」で動いているように見えると思いますが、まぁ、その通りです。少なくとも好奇心と興味関心に突き動かされて行動することを身につける成長途上においては、決められたとおりに動くことより優先して、自分が「なにに興味を持っているのか」「なにをしたいと思っているのか」「なにをしたくないと感じているのか」「どこまでできるか」という自分の調整つまみを充分に知ることが重要だと考えています。
それから「自分で決めること」もです。
自分で決めた決定事項を、誰に判断されることなく、阻まれることなく、その結果を引き受けることで、自分の裁量を推し量り、自己決定する決断力もおおげさでなく、ちいさなことでも発揮できる力を育んでいけるものと考えるのです。ちいさなことを自分で決められることのほうが、より自分らしさと自分らしい選択を選び、進んでいく大きなちからとなるような、そんな気がします。
私自身の幼いころを振り返ってみると、家族のなかでいちばんの年少者であったためか、意見や気持ちを家族から確認されることはめったにありませんでした。何歳になっても家族にとって、私は「いちばんちいさな」力のない家族構成員であるだけです。大切に想っているのは確かかもしれませんが、ひとりの人間として尊重することは、それとはまた別のことなのですね。「おまえにできるわけがない」というメッセージは常に送られていたのでした。それは言葉としてではなく、態度と行動にあらわれるものをちいさな私が受け取るのですから、面倒なことに内面化してしまい、記憶のないまま、「そういうもの」として深く心理的反応みたいに刷り込まれてしまうのです。そういうものをひとつひとつ解きほぐしていくには、かなり自覚的であることが必要で、時間と「思い直し(メッセージの捉え直し)」の練習が必要になるものなのです。できることなら、こういった遠回りみたいなことは無い方がいいのになぁと正直思います。なかなか損をしますから。
こどもの周りにいてほしい「人」
16歳次男は、どちらかといえばキョウダイのなかでは長女の次に「学習」に興味の強いほうでした。通信教育も使ったことがありますし、習い事の教室に通ったこともあります。ただ、運の悪いことに「指導者にめぐまれない」不運続きでした。
通信教育をやめてしまった理由は、明確ではありません。本人ももう忘れてしまったかもしれません。でも想像できるとすれば、学校に行っていないことで「勉強も何もわからない」と決めつけられることにはとても反発し、そういう雰囲気には非常に敏感でした。教室を授業中に飛び出したのもそういう理由からでしたから、なにかの拍子で「学校の勉強をする」ことが嫌になってしまったのかもしれません。彼は5歳の家庭保育からアンスクーリング暮らしを始めています。キョウダイではホームスクールのスタート時期はいちばんのりなのです。(末っ子は誕生の時からホームスクール環境ですからスタート以前にすでにそうなのですよね・・・。)
私自身にも経験があるのですが、「純粋な質問・疑問」をふと口にしたときに、なぜか「莫迦にされる」場面があります。質問の本質をすくいとってもらえないからです。「知らない」ということだけを切り取って、莫迦にされ、からかわれてしまうのです。
こんなとき大切なのは、「求めていることを汲み取ってくれる」人だと思うのです。偏見や差別意識がないことです。それに尽きます。
人を人として尊重するという本当に基本的なことなのです。残念ながら、学校教育信仰にあっては、学年別という区分にとらわれ、目の前にいる「こども」を「ひとりの人間」として扱うということに、注意を払うことができない場面が多いのです。こどもたちも、その周りにいるおとなたちもです。その人にとっては「あたりまえ」の行動が、ただ単に無知からくる罪であることは多々あるのではないでしょうか。それを決してするな、とそれを責めるつもりはありませんが、「もしかしたら、気づかないうちにそうしていたのかもしれない」と自分の言動を振り返ることは誰しもしていいのではないかと思います。それが許されるだけの時間とゆとりが必要なのでしょう。寛容な社会であることが求められているのでしょう。
欲しいのはこんな教科書
教科書は、調べものに使えますね。特に理科の教科書です。でも使えるなぁと思うのは、中学校で使うものからです。小学校教科書は、親の私が一通り目を通すことはありますが、こどもの学習にこども自身が使う機会はあまりありません。よほどドリルを解くなどということがなければ。
中学校理科教科書の構成は、やはり学年ごとですから、今日は1年生、2年生、3年生の教科書をひっぱりだしました。それぞれ学年の教科書ごとに「地学」「化学」「生物」「物理」の分野が分けられているようでした。ですから求める単元が学年をまたいで検索することになったのです。
中学からも、「地学」「化学」「生物」「物理」でそれぞれにテキストにしてもらったら、もう少し、探したいことがすぐに見つかるのになんて思いました。小学校では、年齢に応じた発達度合いで理解力が異なっていますから、それに応じて学年ごとの学習カリキュラムが構成されていることはうなづけます。でも12歳から15歳ならどうなのでしょうか。
分野別の4冊のテキストブックを1年の間にまんべんなく触れるためには「〇年生で習うのはここまで」とゴール設定をしておくことは、たとえば転校するなどして、学校ごとに扱う分野の順番が違っては困るでしょうから、理にかなっていると思います。
日本の教科書は独習に向いていません。教師が生徒に指導する授業スタイルに沿っているからという点も大きく、授業を受けているという前提があってのテキストという感じがします。授業の補助教材の位置づけで、教科書から学習するためのものではないのかなと思えます。
各分野が1冊にまとまっていれば、スタートから段階をおって進むタイプの子も、ゴールからさかのぼって学習を進めるタイプの子も、どちらにも対応できるような気がしますね。
学年別学習課程にとらわれるあまり、そのカリキュラムの履修をゴールとするあまりに、それよりも重要な学習者個々人の「学習方法」の多様性に対応できないでいるのでは?その可能性はないでしょうか。
学校で使えるテキストひとつとってみても、学習者の多様な学習を支えるという目線から、新しい可能性が誕生するかもしれません。
算数・数学の教科書でいえば「単元対応の系統図」に基づいた教科書設計があるといいのになぁと常々思っています。
いわゆる「つまづき」を学年という視点からではなく、系統単元からとらえることができるからです。学年制の弊害は大きく、「わからない」ことで学年をさかのぼることには大変な抵抗感を生むようです。留年を「落第」ととるか「学び直し」ととるかで違うのと同じではないでしょうか。「学び直し」は時間のゆるすかぎり何度取り組んでもよいものです。既定の習熟度に到達しないゆえの落第は罰則の意図が大きくなりがちです。
必要なのは教科書?それとも指導書?
我が子の学習を「見る」家庭では、「どのように学習を進めるか」に関心が高いかもしれません。学習のカリキュラム、解法、時間割(生活リズム)などの指南書が必要だと思われるかもしれません。
でもどれだけたくさんの「オンライン授業」数に恵まれ、「学習教材」に恵まれても、学習環境に乏しければ、それらは活かすことができません。WIFI環境があるかどうか、のことではありません。
おそらく多くの親が求める本質はそこではないでしょうか。なぜなら、こどもの学習を手伝い、監督し、はっぱをかけることは大変な労力を要するからです。そのスキルがあれば、こどもの注意を向けることに成功し、モチベーションを維持することに成功し、与えられた課題をクリアすることで得る成功報酬にとびつかせることも容易かもしれません。ある程度の工夫でそれは可能かもしれませんが、そういった指導方法を試行錯誤を繰り返して観につけるには時間もかかります。指導者養成講座に通う必要さえ感じるかもしれません。
こどもの勉強だけをみている余裕は多くの親にはありません。それよりもっとたくさんの「やるべきこと」が待っているのですから。それは家庭によってさまざまです。
必要なことはなんでしょうか。
そんなことかもしれませんよね。もし、「向き合いたい」という気持ちがあるのでしたら、そういうことかもしれません。
学習コンテンツを与えるだけでは、それは活かされないのです。学ぶ意欲は本来誰の心にも備わっています。それを呼び起こすには、それを失くさないためには、今、なにができるでしょうか。
親と子が過ごす時間は、たぶん短いんです。思うより、ずっと。だから大切に。どうか、大切に。
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