みつけたの?
躍起になっている間は、なかなか見つからない。
普段は頭に浮かばないような毎日だけれども、心の奥底で求め続けていると、自分ではわかりえないもっともよいタイミングで、もっとも適したものが向こうからやってくる。
だから、なにも心配しなくていいんだ。
そんな確信を持ったのは、いつの頃からだったのでしょうか。思い描く未来は訪れず、ぶちあたる扉の数々は思う通りに開いてはくれず、もがいている毎日が、たぶんきっと誰にでもいつかはあると思うのです。
できることはやっている。やるべきことと思われることはやっている。
それについて一日中考えている。
それなのに、ちっとも前に進まなくて、なにもしていないのと同じように感じる。
いったいなにが足りないんだ。なにが悪いんだ。なにが欠けているんだ。
まるで自分がなにか罰でも受けているのかのようだ…。
そんな風に思い悩み、苦しみ、出口のないトンネルに迷い込んだような日を送ったことがあるでしょうか。その時、私はどこを見ていたのでしょう。今ならこう思えます。トンネルの暗闇を見つめ、その暗闇が暗闇でない証拠をみつけようとしていたのだと。
出口の先にあるはずの明るい未来を想いながら、耐え続けることは本当にできるのでしょうか。その未来は希望ではあるものの、不確かで、なんの保証も約束もない思い描いているだけの絵にすぎません。そして、それは自分の描いた絵ではないかもしれないのです。実は、他の誰かが成し遂げた絵を見せられ、それを自分の絵であるかのように再現しただけのものだったのかもしれないのです。自分で描いていると思っている絵は幻想だったのだと、自分でないものの想いを代わりに受け入れていたのだと。もしそうだとしたら、トンネルの出口にある幻想にたどり着きたいと願うでしょうか。どうも、そんなことはなさそう。だって、いつまでもたどりつくことができないのだから。
不思議なことに、人にはこうした意識にのぼらないレベルで本当に歩くべき道なのかどうかを判別できるようになっているようです。どうして進もうとしないのか。その理由は自分がもっとも知っているようです。その次にそのことを知っているのは、あなたを見かけ、あなたに注意を払う誰かです。それは親しい人であるとは限らないんですね。本質的に自分とよく似たものを感じ取る誰かなのだと思います。きっとそこに共感してしまうのでしょう。だからこそ何も助言しないのは、その先にある自分でつかみ取る輝きを誰よりも知っているからかもしれません。そんな人知れぬ応援を、実は受け取ってきているのですね。真っ暗なトンネルのなかにいるようなのに、その人からはあなたがよく見えていた。でも、きっとあなたからは見えないのです。たとえトンネルを抜けたあとになっても。なぜか、そういうものなのです。いいえ。なぜか…ではないのでしょうね。やはりそこには理由があって、それはきっと、いつか今度はあなたが見守る番になるからなのでしょうね。
トンネルからなかなか抜けられないような気がしますね。そして、それは自分のせいではないとどこかで信じたいと思っているものです。なぜかって。やはり先ほどの出会うことのない誰かの想いの存在に気づかないからでしょう。孤独を感じることで、唯一自分の存在を、どこかで確かめようとしているからなのでしょう。自分でもきづかないうちに、自分自身の姿を追い求めているのかもしれませんね。同時に、想いを寄せてくれるだけの価値ある自分の存在を受け容れていないからでしょう。どこまでも独り。だからこそ、やっと自分のもっともそばにいる自分を見つけられる。
何者かに ならなくていいんだ
自分は 自分でいていいんだ
背中に背負い続けた大きな荷物を下ろした瞬間だったでしょうね。
やっと人生で初めて、自分という器の中に還ってきた心地は、いくど味わっても幸福なものですね。
この瞬間
今、ここに在る じぶん
探していたものを見つけるための道のりではなく、求めているものに気づくための時間だったのだと。なにかのために探したかったわけではなく、自分が感じていることそのものに気づきたかったのだと。それは、あたかも本当の自分に出会う瞬間だと感じたことでしょう。
その瞬間、自分を構成するすべての要素の存在を五感をすべてふるわせて感じたことでしょう。
降り注ぐ陽のひかり。あたたかさ。
全身を包み込まれる穏やかさ。
いつも、ここに還ってきていいのだ、と。
だから、いつでもゆらぎ、まどい、探し、不安を覚えてもいい。そして、求めているものを静かに求めるようになると安心を知り、私は静かに時間の潮流に漂っています。
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