非学校・脱学校・個別最適化(デフラグ)学習・在宅学習
アンスクーリングとは「非学校」をいう
アンスクーリングを和訳すると「非学校」になります。
こどもたちのまなびの場と機会のあるところは「学校である」という概念は、なかなかに人々の間に深く浸透しています。「学校でない」まなびの場と機会を指す言葉がきっとすくないのだと思います。
だから多くの人に向かって「学校でない」場と機会を説明するには、「学校」という概念を基準にして、「非学校」と表現することから始める以外に、その意図を伝えるのが難しいと感じます。
我が家のホームスクール・スタイルは、”アンスクーリング”といってよいものと考えています。基本的に次の2点があげられます。
「アンスクーリング」という表現は、「学校社会」が基本設定となっている人々に説明を試みようとする時、その設定との相違点について語ることで生まれた初めての挑戦といえるでしょう。そして、アンスクーリングの出発点でもあります。
学校ではない。
それを起点に展開するすべての物事が、大抵はこどもたちの持つ”とらわれない発想”から生まれます。親はそのうしろからあとを必死になっておいかけるわけですが、(なるほど、これが”学校ではない”ということなのか)と目を見張ることがしばしばです。
しかし、やがて「学校ではない」場所、過ごし方をするこどもたちからみてのそれは、アンスクーリング(非学校)という言葉すら適切な表現ではないと感じるようになります。でも、いまだにちょうどよい言葉は見つかっていません。ただひとつ確かなことは、アンスクーリングをはじめ、そのほかのホームスクールやホームスクーリング、不登校といった数々の言葉は、すべて「大人の都合」でこどもたちを割り振ることで、その理解を深めようとしたに過ぎないということです。
こどもたちにすれば、なんら分断する理由もされる理由も、違いのなんたるかやその理由を明らかにする必要もなく、ただ「そう在る」という存在のままに毎日を過ごしているだけなのです。
アンスクーリングのこどもたちをアンスクーラーと呼んでも、ホームスクールで過ごすこどもたちをホームスクーラーと呼んでも、学校に登校するこどもたちを通学生と呼んでも、それらは単に多様な場の管理や区分のためのものです。こどもたちは互いに、それぞれの環境では「遊び仲間」であったり、「話し相手」であったり、「共通の趣味を持つグループ」であったり、「あるテーマで行動を共にする相手」であったりと、さまざまな顔を見せあいながら、”人”としてつきあいをひろげていることでしょう。
それぞれの学びの場と機会には、それぞれの方法や手段が用いられるのかもしれませんが、だからといって、それが「こどもたちを区別する」目安にはならないのだということは肝に銘じてほしいのです。それは、便宜上の使い分けに都合がよいものであるにすぎないから使っているのだと、自覚しておきたいのです。説明するのに、ちょうどよい言葉の道具(ツール)というだけなのです。
デスクーリングとは「脱学校」のプロセスをいう
非学校と微妙に違っている「脱学校」とは。
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