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ennui 弱音はアンニュイに吐くもの

 相も変わらず頭痛と吐き気がひどい。
 相も変わらず体が重い。
 身体が弱い人は線が細いように思えるが、思うように動けない身体は満たされようとするがままに食し、不器用に肉をまとっていくことを知りました。気を紛らす時間が一日二日と続きます。

 頭痛がひどいからだ。
 吐き気があるからだ。
 気分が晴れないからだ。

 と、なんとか自分を赦そうとしたものでした。
それでも休めた気にはなれず、冬の一日はすぐに暗くなるものです。


 楽しいことも無いのに笑えるものか

 そうでしょうか。
 与えられることでしか、人は、なにかを成し得ないのでしょうか。

 楽しくなるようなことを思いだせばよい

 そうなのでしょうか。
 思い出が少ない人はどうしたらよいのか、無いものからは生み出せない辛さを想います。たったひとつの思い出であっても可能かもしれません。でも、もしかしたらその思い出は、違う側面から眺めれば哀しい思い出であるかもしれないのです。

 たった一度でいい。
 「楽しい」という感情を覚えている?

 それを思いだして
 その感情で満たして
 たったそれだけでいい

 これは私の方法ですけれど、思い出をたどるよりずっと早く、ずっと簡単にできてしまうものですから、こういった方法を使っています。


 こどもの頃、日曜日が訪れるたびに(当時は土曜日も学校がある日でした。)なにを探す当てもなく、こども用自転車で歩いたことのない道を走りつづけました。ただ知らない道を「怖い」と思うところまでずっとです。
 思うようになにも進まない日は、なにを探す当てもなく、ネットの世界を渡り歩いていることが時々あります。「なにかないかな」と、まるで冷蔵庫を何度も開ける子どもの頃と同じ気持ちです。
 自転車でかけていたあの頃の様にはなかなか見つからないものですね。
 

 いつまでも 終わりが来ない
 なにかを探して
 どこにも たどり着けず

 焦っても仕方ないのだからと思ううちに、頭痛のせい、吐き気のせい、具合が悪いせい…となにかのせいにしてしまう罠に堕ちていきます。

 あぁ、それはもったいない。
 時間は無限では無いのだから。

 感情は仕えます。
 感情に振り回されず、仕えさせることができます。

 こうして。
 自分を創っていくのだと安堵し、起き上がったのが今朝のことでした。
 頭痛のけだるさも、吐き気のわずらわしさもなにも変わりません。でも手足が私の身体の一部であるのと同様に、頭痛も吐き気も私の一部であるのだから一緒に連れ歩いています。そう思うと、厭な気分も少しは落ち着いてくるのでした。

 さて、洗い物をしているとコップが手からすっぽ抜けて、ぶつかったグラスを割りました。その様がボウリングのピンがはじけてストライクのようだと思うとおもしろくて、楽しい心地になってしまいました。
 シンクの中で割れているので片づけるのに面倒でなかったことも理由のひとつでしょう。グラスを持ち上げると、これが見事な模様を見せてくれました。思わず写真に撮りましたので見てください。

 まるで。
 クリスマスツリーを描いたような放射線と玉飾りのような水しぶき。


 こんな偶然の贈りものが私はだいすきです。
 偶然のなかで、私は愛されているのだと、なぜか実感するのです。
 それは「誰か」ではなく、なにものでもなく、例えるなら植物に注ぐ太陽が私にも注がれているのだと感じるような温もりです。

 まだ生きてていいよ

 そんな優しい声が聴こえてくるほどの心地になるのです。

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