そのセリフ、どんな意味で使ってる?
言葉の獲得。それは教わって得るようなものではないんですよね。
《目の前で繰り広げられるドラマを元に、実際に再現してみる》
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「ありがとう」と言ってみた。
〇相手が笑った。(正解。)
×違う反応をした。(どうやら違うらしい。)
《状況設定の前知識があるうえで再現してみて、検討する》なんていうことを何度も繰り返しては、正解と区別し、さらに分析し、整理し、軌道修正するということを赤ん坊のころから脳内処理しているわけです。なんとも賢すぎるのが赤ん坊なので、たぶんきっと人生で一番賢い時期。この時期にはやはり「わかりやすい反応」がぐんぐんと語彙力、表現力を広めてくれるのだなと思います。
そこで、身近な保護者や親がうっかり「まちがった反応」をしてしまうと、それが正しい反応なのだと誤認してしまうということがおきます。もっとも極端な例では、「かわいい」「大切にしたい」という愛情表現が、ふさわしくない行為行動であったときですね。想像にたやすいと思いますが、この極端なドラマが展開されるモデルとそうでないモデルの境界線は、なかなか難しく、両親そろっての価値観に大きく影響されるように思います。代々受け継いできた文化・慣習というのも、ごく当たり前の感覚になっているものですから気づきにくいというのもありますね。
さて、言葉を覚えたての頃には、きっと使ってみたいとチャンレンジ精神旺盛な子もいることでしょう。逆に、間違いたくないという完璧主義の子もいるはずです。それでも新しいチャレンジに失敗はつきもの。
「言葉の使い方が間違っている」ときには、
〇指摘されたくない
〇間違いを正されたくない
ものですよね。だって、わからないわけじゃないのですから。ただ、ちょっと知らなかっただけ。勘違いしてただかけ。うっかり間違ってしまっただけ。そんなときに、ここぞとばかりに指導されても、とても素直に受け容れる気になれないものです。身に覚えが無いでしょうか。
だからですね。
〇指摘しない
〇間違いを正そうとしない
子「×××して~」
親・保護者「そうだね。〇〇しようね」
そ知らぬふりして、合ってる言葉を口にすることで、子は新しい情報に更新できます。恥ずかしいという気持ちにならずに済みます。恥ずかしいという気持ちは、あまり経験したくないものです。それがもとで、「恥ずかしい気持ちになるような流れを避けようとする」と、先々、人の話を聴かない、新しいことに挑戦しない、間違いを認めない、拒否する、間違ったという事実に固執する、という行動につながりがちです。言葉だけでなく、行為・行動も同様ですね。親・保護者が教師になったらいけないんです。
少し成長しまして、対話らしい対話の時間が訪れますと、大人もそうですが単語や熟語、四字熟語、慣用句、ことわざ、故事成語の使い間違い、覚え間違いに気づく瞬間もあるものです。社会人になってそこそこ距離感のある人間関係のなかでは指摘するのは失礼にあたるというマナーが共有されているので、逆に言えば、なかなか指摘してもらえずに、長年勘違いを続けてきたということもしばしばです。それはもう、いくらでも、あるあるです。私もです。昔の人は、なんて美しい言葉を使いこなしているのか。ホントにうらやましいですね。
指摘というカタチではなく、「質問する」というカタチで、これは難なくお互いにまなびあえることです。
「あ、ごめん。今の、ちょっとわからなくて。確認していいかな。」「それって、こういう意味?合ってる?教えてもらっていいかな。」
「あ、そうか。うん、わかる。それって、〇〇だよね。」
相手は、内心(〇〇? あ、それそれ。そっちだわ)なんてこっそり学習しているかもしれません。
家族の間だともう少し踏み込めるので、指摘に近い感じにもなりますが、まなびがもっと踏み込めます。
「ん?それって〇〇って言いたかったのかな。」
「あ、そうそう。それそれ。」
「どうして、××を、〇〇の意味だと思ったんだろ?」
「あ~、だって、××って、こういう意味なんじゃ?」
「いやいや、語源はね…」
「あぁ!それは勘違いしやすい。」「確かに(笑)」
…という具合です。アンスクーリング風景ってこんな感じですね。
さらに「でも、今ではこんな使われ方をしているよね」「そうみたいだね」「どうしてだろ?」「どうしてかな」と、そうなるに至る流れを想像してみたり、突如、新語を生み出してみたり、です。
《目の前で繰り広げられるドラマを元に、実際に再現してみる》と最初に書きました。ドラマというのは、赤ん坊やこどもを取り巻くおとなたちの会話や態度、行動のことです。いつも見ていることが世界のすべてです。毎日「あぁ、こうするんだな」とまなんでいます。
赤ん坊やこどものすることは、時に宇宙人のようにみえます。それは気持ちと表現方法にズレを感じるからかもしれません。そんな時は、
〇なにを伝えたかったのかを知ろうとすること
〇知ろうとしているという気持ちが伝わっていること
〇そして、心と表現が一致している言葉や行動はどんなものかを、機会あるごとにやってみせること。
この繰り返しでしかないと思っています。言葉だけで「~しなさい(指示・命令)」「~してはダメ(禁止)」なんて言ってもムダです。その方法で身につけさせるためには、従順であることが必須なわけですから、親子関係に支配と主従が生じてしまいます。それではつまらない。たのしくないんです。たのしくないことは、誰も続けたくないし、根性論や正論だけで続けられるはずもありませんよね。やめましょ。
「自分がされたらいやなことをしない」なんてよく言われます。それを、こどもに対しても同じようにするには、対等な人間であるという最も基本的な認識を持っていること。指導と指導を受ける側の対立になってしまうと、「そうしなければいけない」と正当化してしまうのです。さみしく、つめたいじゃありませんか。
こども、すごい
赤ちゃん、万能すぎ
成長するということは、どんどん不要な能力をそぎ落としていくということです。そぎ落とし過ぎないように、気をつけたいけれど、完璧は目指さないでも大丈夫。もし、うっかりそぎ落としてしまっても、こどもにはいくらでも「まなぶ」というチャンスがあるからです。まなぶというのは、どこかに忘れていた自分に出会う衝撃すら受けます。
だから大丈夫。肩の力を抜いて。
どうしたらいいのかなんて、全部、こどもに教えてもらったらいいんですよね。
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