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まなびがそこにある

マガジン『ホームスクール、まなびのエッセンス』 
3ノート目です。

Essence:真似る

 わが家はアンスクーリングで毎日を過ごしています。アンスクーリングって?とどのように説明すれば伝わるのかと、なかなか悩みます。「こどもは学校に通っているもの」というのが標準化しているので、「学校に行っていない」ことを基準に語られがちなホームスクール(アンスクーリング/ホームスクーリング/ホームエデュケーション)ですが、そのように比較して説明しようとするとかえって本質から遠ざかるような気がしています。「普通と違った」ほかのどのことでも似た印象を受けます。わかりやすいように伝えようと懸命になればなるほど、違いや異質ばかりが浮き彫りになって、そこに注視したい人にそこにとどまる理由を与えているかのようです。
 ホームスクールを語りたい。そう思います。

【アンスクーリング】

 個人で運営しているホームページは私なりのホームスクール理解をまとめたものですが、そこから引用してみますとアンスクーリングを次のように説明しています。

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ホームスクーリングセンターkokage
まなびあい>ホームスクール・スタイル

 わが家は4人キョウダイです。2歳違いの上3人と末っ子はすぐ上の兄とは4才違いです。「うちではこれがホームスクールだなぁ」と思った最初の記憶は、ある日のお散歩中の夕焼けをみあげたときのことでした。
 年齢がいちばん上といちばん下では8つ離れています。小学生と未就園児では知っていることも、判断力も、まるで違っていて当然です。ですから、それぞれに夕焼けを見た時に考えていたことが違ったのです。
「きれいだね」
「どうして朱く見えるの?」
「もう夕方の時間なんだね」
「上をむいたまま、どこまで歩けるかな」
 全員が上を向いて歩いていたので、横連なりに手をつないでいたのでした。それぞれに感じること、感がることが違っていて、その瞬間を共有していることがホームスクールなのだと強烈に感じたのでした。

 ある時、末っ子が新聞紙と虫メガネを持ち出して、外で太陽光で新聞紙を燃やすということを始めました。それは数年前の彼女の目の前で、姉兄たちがやっていたことです。彼女はまだそのとき見ていただけでしたが、「今の自分にならできる」と思ったのでしょう。突然、はじめるので驚きましたが、彼女は憶えていたんですね。それで「やってみたいと思ってた!」というわけです。これをどんな言葉で表せばいいでしょうか。連鎖とでもいったらいいでしょうか。引き継がれていくんですね。

 またある時、中学生の兄が棒を組んで立方体を作っていました。隣でじ~っと見つめる妹が真似しだします。兄はそれに気づくと決して口を出して教えることがありません。でも見ています。棒を足りなさそうにしているので、自分の立方体を崩して渡しました。妹の立方体はなかなかうまくできません。最初はみているだけ、次の機会では真似して作ってみて、その次の機会では強度を高くと工夫し、考え、自分の立方体をとうとう仕上げました。
 その取り組みは時間割を決めていませんから、思い出したときに、やりたいと思いついたときに始まります。始まりの時間も終わりの時間も決まっていません。本人が「はじまり」と決めたら始まりで、「おわり」と決めたら終わりなわけです。

 末っ子が誕生したときからキョウダイ全員がホームスクールにはいっていたので、末っ子の行動は「これがホームスクールなんだな」とよくよく私に教えてくれます。

 真似る対象があることが、どれだけ恵まれているのかとも思います。ホームスクールでは、子が真似る対象が親であることが多々あると思います。だからよくみなさんおっしゃるのですね。親のほうこそホームスクールを存分に楽しめばいいのだと。本当にその通りだと思います。真似る対象のおとながそこにいればよいのだと思います。加えてそれは「親」に限定されなくてもよいと思うのです。キョウダイや友人、近所のおじさん、おばさん、出かける先にいる年長者たちが、みな真似る対象です。そこからどのようでもまなんでいけるものです。親の役割りといえば、その真似が良心から逸脱したものになっていないかの監督だと考えています。
 監督というのは監視ではありません。コーチという指導者の立場ではなく、ファシリテーションの導きですが、誘導にはならないよう、本人が心底から望む方向から離れていないかどうかを気づかせる働きです。そのため直接的な働きかけがなくても、心にもっとも近く存在していられるようにと暮らしの工夫をしていきたいと思うのです。一日にどう過ごすのかが決まっていないアンスクーリングだからなのですが、こどもの見たこと、感じたことの瞬間を共有することに最も心を砕いていたいと思うのです。それはこどもが幼ければ幼いほどなおそうであることの必要を感じます。こどもひとりひとりの《感じ方・思考の進み方》を知らないと、「なぜ、そうするの?」「なぜ、そんなことを言うの?」が検討のつかない事態になりがちで、存在が遠くなってしまうからです。キョウダイでもまるで違っています。成長する過程でも、段階をおってやはり違っています。多くの育児書のアドバイスはとてもおおまかなもので、おおくのこどもをサンプルにして共通して言える範囲のことにすぎませんから、あくまでヒントの入り口です。そこからはやはり目の前にいるこども自身を見ること、感じることのように思います。

 真似られる対象であるという自覚。それは社会人の自覚にも通じます。人として、年長者として、先に生きる者として、そして同じ社会に生きる者として、どう在ればいいか。どう在りたいか。
 いつでも真似てまなんでいるこどもたちはすぐそばにいます。信号を渡るというなにげない日常の行動でも、どこかでこどもはその姿を見ています。誰もみていないようで、ふときづいた床のゴミをひろう姿もみられています。怒鳴り声、舌打ちする仕草、嗤い、そんな行動も。
 大人がなにもかも忘れて子供でいられる空間も必要です。社会で自覚して行動するということも同時に必要ではないかとも思います。こどもたちの成長には、ただ生み育てている親だけがその役割にあるのではなく、全員にあるのですよね。そのことがもっと知られてほしいなと思います。考える機会があればいいのかな。

【ホームスクーリング】

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 ホームスクーリングはこのように説明しています。親が指導する先生であるように思われがちですが、どちらかといえばやはりファシリテーターです。こども自身が要求するまなびがどこで・どのようにまなぶことができるかの探究に長けています。こどもが家から独立するまでの過程のイメージを具体的に持っており、それまでになにを身につけていればよいかの目標もホームスクーリングでまなぶ内容の指針になっています。あらゆる教育のコンテンツを活用し、その学習を手伝っています。彼らもまた子にとって真似る対象だといえます。学び方を学んでいるからです。

 ホームスクーリングが親主導型とよばれるゆえんは、親が社会背景を熟知しており、それを軸にして、子に応じて最適な道筋でカリキュラムを作成することにあると考えることができます。子がやがて自立して生活する基盤を得るために必要な知識や技術、技能など他分野に渡り、必須だと判断する事柄は、こどもひとりひとり異なっている部分もあれば、家庭哲学にのっとり、共通する部分もあるでしょう。

 知識とは学校で学ぶ範囲とは限りませんし、学校の教科学習課程のように学年別に対応したものに制限されません。子の興味関心、そして能力もまた検討にはいることでしょう。能力は身体能力や感性、知的能力にまで及ぶでしょう。
 技術とは単に最新技術を知ることや、その取り扱い方法を身につけることでありません。対人折衝、交渉、ディスカッション、合意形成、いわばリベラルアーツ(教養)とされる分野が重視されることでしょう。
 技能は、子が身につけていこうとすることや、実現したい夢のために社会的に必須な項目を指します。それらについて学び続けることと、資格や免許を必要とすることは別の課題です。資格や免許はそれを活用するために取得します。取得後に学び続ける環境に自分を置くためです。もっとも資格や免許合格を目的にすることもまたひとつのまなびの手段です。期限をもうけ、習得するべきレベルをもうけることで、計画と進み具合を自覚する練習になったり、おもいもよらなかった備えるべき知識に出会えるかもしれません。

 それらが必要だと判断したなら、それらを習得することに親は妥協しません。こどもがくじけそうになったとき、あきらめそうになったとき、それを時には見守り、時には叱咤激励することでしょう。

 それらが先取り教育でもエリート教育でもない(※)ことは明らかです。なぜなら、こども自身も自覚しないような内なる声を聴くからです。言葉として外に表現されていない気持ちや、感情の動きなど、明確に表明されない意思を深くすくいあげ、それらを解析することが、幼少期においてはもっとも重視されるべきことだからです。彼らの身体能力、知的能力も把握しながら、よりベターな選択肢を探し続けることでしょう。

(※)ここでは以下の解釈で使用しています。
先取り教育;学年別や年齢別だとされている一般的な段階よりも前倒しに詰め込んでいくこと。子の成長発達能力に適切に応じていない場合をいう。
エリート教育;大人が考える「あるべき大人像」に近づけるための指導と評価が伴う時代に合わせた教育。
英才教育;突出した才能を伸ばすために、才能を分野別にとらえ、その分野の専門家による指導を受ける。
早期教育;成長段階のうち乳幼児期の早期に働きかける教育。自然環境が少ない現代において、意図的に心身の成長をうながす刺激を与える必要があると考えられる。


【自由な学びのホームスクール】

 突き詰めていくとアンスクーリングもホームスクーリングもその境界は曖昧になってきてきます。それは本質が同じだからだと考えられます。ホームスクール(アンスクーリング/ホームスクーリング)は、こども自身が自らまなんでいく姿であり、親自身もまなぶ、まなびあいの場であり、どちらも主体となっています。

 切磋琢磨という言葉があります。
 互いに磨き合い、輝いていく様子が目に浮かびます。互いにそうでありたい。そんな信頼関係のある存在でいたいという理由は、家族であるからというだけではないような気がします。家族以前に、出会った縁のある人だから、という気がします。同じ時代に生き、同じ社会に暮らし、同じ空間を共有する仲間であるという大前提で、対等な人間関係を築いているものだと、どのホームスクール家庭を眺めてもそう思えるのです。模索しながら、そこへ向かっているたくさんの姿がうかがえるのです。多くは子にまなび、気づき合い、赦しあって、人として人らしく生きていくように感じます。

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