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推しの倫理 ツッコまれて赦されたい / 「別のあり方」を望むこと

ツッコまれて赦されたい

『オタク文化とフェミニズム』(田中東子)を読んでいる中で、「男性たちは女性を消費することに、戸惑いを覚えることはないのだろうか?」(215-216)という言葉を見つけた。

そのとき思い出したのは、「粛清!!ロリ神レクイエム☆」(しぐれうい)という楽曲だった。

「粛清!! ロリ神レクイエム☆」はイラストレーターで趣味としてVtuberを始めたしぐれういが内輪ノリで作った曲が一億回以上の再生を生み出した驚異的な作品だ。

どうしてこんなにも再生されたのか、このような作品がここまで再生されることがどうして許されたのかと思わされた。

私は気づくと何度も再生している。だから個人的な意見にすぎないが、楽曲も、MVも魅力的なものである。また、海外の人の反応をみればわかるように特に海外の人からすると物議を醸す作品でもあったこともここまで人気になった要因の一つだと言えるのかもしれない。

私は、それらに加え、この驚異的な再生数は、少なくないオタクのある欲望が反映されている作品であったからだとも考えている。

その欲望とは、自分が作品に対して持っている欲望が正当なものであるかの不安を収めるためにツッコまれたいというものであり、ツッコまれることで赦されたいというものである。

本楽曲はMVをみるととてもわかりやすいが、ロリを好む男女含むファンを、ロリ神としてのしぐれうい(9さい)が粛清するというものである。

「本当に気持ち悪い」ファンを「ういビーム」によって粛清している。また、これも大事なことであるが、ロリ神は粛清によってファンを赦してもいる。(レクイエム)

(なお、同MVのYouTubeのコメント欄を見ても個人としての自虐や日本人としての自虐に満ちていてとても面白いし、ノブロックTVから生まれた五百鬼ノノシルに見られる罵倒文化も同じように考えてみることができるように思う。)

私はここで、曖昧な記憶だが、東浩紀が「動物化」にヘテロセクシャル的な欲情が重ね合わせてオタクの萌えは性器的な欲望として解釈していたことを(動物化するポストモダン(東浩紀))さらに、千葉雅也はこの「動物化」を再解釈し、オタクの萌えには生殖とは異なる規範もあると論じていたことを思い出した(意味のない無意味(千葉雅也))。

このことを踏まえると、イラストやアバターのロリを信奉することは現実の幼女を性欲に消費することのみに還元できないことはオタクのためにも言っておくべきだろう。
なぜなら、現実の幼女とイラストやアバターのロリは異なる存在であるし、中毒的な信奉と欲情も異なるからだ。(参考 松浦優さんの文章

そのうえで、(しぐれうい(9さい)のファンも同意してくれるだろうが)少なくともタテマエとして現実的に幼女が性欲の対象とされてはならない。
このMVに限らずイラストまたはアバターのロリを信奉することが現実のタテマエにどのように影響をもたらしうるかについて注視する必要がある。

本MVの神話は、つまり、ロリ神に粛清されることによってオタクが性器的、非性器的のどちらかあるいはその両方の欲望を持ってロリ神を信奉することが赦されるという神話は、

ホンネとしてロリを欲望することそれ自体は赦されるものと捉えてもいいのかもしれないが、タテマエとして幼女を欲望してもいいというように捉えられないように、女性差別的な固定的な見方を再生産しないように注視する必要がある。


最後にもう少しだけオタクの欲望を指す言葉について書き連ねたい。
東浩紀が2000年代にオタクの欲望に性器的欲望を重ねたように、今でもオタク視点でも自分の持つ欲望を性器的にのみ解釈するような言葉ばかりがまだ多いように思う。

「萌え」という言葉はたぶん誰も使っていないのにも関わらずなぜかまだオタクの欲望を指す言葉として潜在的に力を持っているように思う。(オタクは親世代とオタク趣味を話す時の感覚を思い出してほしい。話しやすい趣味、話しにくい趣味があるはすだ。)

2010年代後半になり、「萌え」から「推し」という性器的なニュアンスの少ない言葉に移行したが、「推す」ことが果たしていいことなのかというような戸惑いをまだ残しているように思う。

おそらくその戸惑いには、オタクの欲望には性器的な欲望も性器的ではない欲望も区別できないものとしてあることが関係しているだろうし、
また「推す」ことが資本主義の論理にあまりにも回収されている現状を知っていることも関係しているように思う。
「推す」ことに限らないが、強い感情は大きい影響を持つものであるし、どのような加害性を持ちうるのかについてはほとんど事後的にしかわからない。

少なくない人が感じているそのような戸惑いが、ロリ神に粛清されたいという欲望を生み出していると考える。
おそらくそれはヘテロセクシュアルの男性オタクに限らないし、オタクが一般的なものとなった今となってはオタクとしてイメージされる人に限る話ではない。

(ホンネとタエマエは上野千鶴子さんの書籍から。『フェミニズムがひらいた道』や鈴木涼美との共著の『限界から始まる往復書簡』)


「別のあり方」を望むこと

(参考 『メタバースの哲学』(戸谷洋志))

メタバースを一般の人が知るようになってからしばらく時間がたったように思う。
統計に詳しい先輩とメタバースについて話していた中で、「結局メタバースってバズワードに過ぎなくて社会に大した影響力を持てないのではないか」という話になったことを思い出す。

新しい技術が生まれた時は保守的な意見で批判的な目線を向けられるし、革新的な立場の人から過剰に肯定的に思えるような意見も生まれる。(バーチャル美少女ねむの言説は後者に入るように思える。)

そのうえで、過剰なものではなくある程度緊張感のある意見が少しずつ生まれてきているように感じる。


メタバースが起こした論は、ほとんどの場合は、
「人間が編集可能な領野が多次元的に増えて、その結果多次元的に拡張された体験に人間がアクセスできるようになったときに、既存の文化圏にいる人とどのような摩擦が生じうるか」
というように言い換えることができるように思う。

これはフィクションを創作できるようになったという言語の発明や、視聴覚の次元の創作を平面的ではあるが拡張した映画の発明とも重なる。

そのうえでVR関連技術の特異性は、編集可能な領域を視聴覚・立体視に限らず、ほかの感覚領野も含めて多次元に拡張する技術であることだ。
そのうち、現状ある程度ではあるがすでに一般に普及したVR技術に限定して特異性を考えてみると、
空間の創造、キャラ(=アバター)の創造、それら創造手段の部分的民主化であるといえる。

これらの要素から生まれる、メタバース関連のサービスの利用者=消費者の欲望の少なくない部分は「別のあり方」ができることである。
よりわかりやすくいうと、衣食住のうちの衣と住については「別のあり方」の模索が現状の技術をもってしてもかなりやりやすくなっている。

この「別のあり方」の捉え方を巡って、さらには、「別のあり方」と現実の物理空間の「現実のあり方」との摩擦を巡って現在の哲学的な、倫理的な議論が生まれているように感じる。

たとえば、バーチャル美少女受肉(バ美肉)に関係する議論がある。
バ美肉とは主にヘテロセクシャルの男性が女性のアバターを使うことであると(簡単にではあるが)いっていいだろう。
男性の8割ほどがバ美肉を行っていると聞いたことがあるが、このバ美肉をどのように捉えればいいのだろうか。

これは現実空間にある既存の女性に対する見方(ないし性差別など)を再生産していると捉えていいのか、それとも現実空間とは異なるメタバース特有の欲望を持っていると捉えるのか。

前者の場合は性器的な欲望とは無関係な「かわいくなりたい」という欲望を取り逃がすだろうし、後者の場合は現実空間に対する影響、または現実空間を無視できない人に対する影響を無視してしまうようなところがある。

これは一次創作と二次創作の関係を考える場合に浮かぶ問題とも近い。
一次創作の「一次性」を重んじて二次創作を一次創作を犯しうる脅威として捉えるか(真面目なリベラル)、二次創作を一次創作として捉えるかという立場の違いがあるように感じる(ふまじめなオタク)。

この立場の違いに近いものとして、二次創作が一次創作(創作源)を指示していると捉えるか(たとえば美少女アバターは現実の女性を指示するととるなど)、二次創作が別のものを指示することのない別のものであるとして捉えるかという立場の違いもあるだろう。

ただ何にせよ、二次創作を一次創作にも二次創作それ自体にも還元できないとする歴史に対する意識をもってでしか二次創作の倫理を捉えることができないように思う。
たとえば、歴史を意識した立場からでないと歴史を忘却した創作の社会的影響について批評することは難しいだろう。(なお、歴史を忘却した立場から歴史を忘却した創作を語ることは当事者研究としての価値を持つことは間違いない。)

一次創作を忘れた二次創作を肯定しつつ用心すること、また、一次創作が囚われていた規範から解体することも強化することもありうる二次創作に対して肯定しつつ用心することが必要になる。

それがオタクでありフェミニストとしてあることだろう。
私からすると、オタクとフェミニストのそれぞれが少なくない場合で抱く、戸惑いや違和感に、言語化できていないだけでオタクとフェミニストの両側面が潜在しているように思える。


また、注意が必要なことはメタバースが「別のありかた」を志向するものであると考える場合であっても、「別のありかた」が「現実のあり方ではない」(not 現実)としてしまうと、
結果的に否定的な対立項として「現実のありかた」を保持してしまうことだ。

そのような見方はたとえば、バ美肉がルッキズムを助長してしまうに違いないと捉えてしまったり、バ美肉をする欲望を性器的なものとしてのみ解釈するようなことを助長する。

ここで言いたいのは、現実空間のありかたとメタバースのありかたが「ある全体」を作るわけではなく、また同様に現実空間、メタバースそれぞれが「ある全体」を生み出しているというふうに捉えられるわけでもない。

それはまず誤解であるとすら言ってもいいだろう。
現実空間、仮想空間が空間という語を含み「ある全体」を想起しやすい言葉であることがこの誤解を助長していることは想像に難くない。

私たちは、男/女という分け方をしがちなことからもよくわかるように、「ある全体」を想定してしまうことが多い。
しかし、全体になることを拒み続ける「別のありかた」が常に生まれ続けているものとしての個別の実践を捉え、「全体にならない全体のようなもの」を捉える視点が必要になる。
現実空間とメタバースのそれぞれに「ある全体」として回収できない「別のあり方」がある。

ただ全体を前提としない「別のありかた」があると言われたところで、
私たちの生理的な認知特性と文化的に獲得した認知特性のどちらかあるいは両方によって、やはりただその「別のありかた」は全体を前提とした「現実のありかたではない」(not 現実)に回収した形で捉えられてしまうことが多く、この見方が一般社会におけるタテマエとして仮構されやすく、そのタテマエが力を持つ場合が多い。
そのため、この仮構された誤解についても無視せずに捉えることが必要になる。

全体に回収できない「別のありかた」、その結果生まれたように仮構される「ある全体」に回収される「別のありかた」、その両方を的確にとらえる必要があるともに、ホンネとタテマエの両方の変化を捉えなければならない。



おわりに(もしくははじめに)

この記事をはじめ「オタクでありフェミニストであること」という題名で投稿してみて、2時間くらいで気づき、驚いたことは、
オタク、フェミニストのどちらかあるいは両方が強烈に嫌われていることだ。

オタクもフェミニストのどちらも自虐することを必要とすることが多く、(「フェミニズムは興味あるけどフェミニストは嫌だ」)、抑圧されているものを触発してしまうから、もしくは当事者性が高いから、読んだ人のことを不快にさせてしまうということだろうか。

今思うと、実質的にオタクは無意識を、フェミニズムは超自我に相当する場合が多いのからなのか、お互いが自分を無意識とし他者を超自我としているからか、
多くの人にとってオタクとフェミニズムの関係は安定したものになっておらず、反発しお互いを不安定にするものになっているというふうに言えるだろうか。

いいねの増え方とフォロワーの動きを見て、
ほとんど内容まで見られずに切られた感じがし、そのことが東浩紀の「動物化」のいうところの、無意識で動く消費者の振る舞いを彷彿とする。

それ自体は仕方がないのだからと、より受け止めやすいようなタイトルに変更してみることにする。
(この補足こそやたらにフェミニストっぽいしオタクっぽい)

追記
軽薄なタイトルでありながらもかなり本質的なことをかけた実感がある。偶然性・アイロニー・連帯における私と公のバランス感覚、節制のロジックを参考にまた捉え直してみたい。

また、別の場所に移動するとして捉えた方がうまく行きそう。移動の欲求、移住の欲求。

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