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私はその意志に付き合う

「誰かが倒れてると思ったけどそれは私だった」は頻度こそ少ないけれどやってくる。一緒にやってくるのは、水辺の唄を、緑の油絵を、青い目がほしい人をどこかに描いていたことだとか。

何かを思い出すときそれが近いのか遠いのかがいつも分からない。眠りから起き出すのは、布団からやをら這い出すのは、無理やりになのか自然になのか区別がつかない。

無理やりを嫌った時間が長くなるにつれて、無理やりを嫌うことを嫌うことも少なくなってきた。というよりも嫌いが薄くなってきた。基本的に嫌うことは間違いなく安直で、嫌うことを嫌うことも安直なのだけれど、安直を必要とする時間というものもある。雲を眺めるような宙ぶらりんは必要なのだけれど、宙ぶらりんのままでいるなんてこともできないのだから、朝早く起きだすみたいなのも必要なのだけれど、その必要を何かの締め切りがくる、疲れた、といった現実的で強制的で肉体的なものにのみ託すのにももう飽き始めている。ただそれはどこかのメンヘラに私のメンヘラに付き合っていくのにいつまでも役立っていくのだろうけれど。

必要な生ぬるい時間、お布団の時間、それはいつかのなにかの緊張した時間の存在によって成り立っているものなのだから、生ぬるい時間を無条件に言祝ぐのも飽きる。さらにはそのような観照の変化を大人になるみたいに要約するのにも飽きて、大人にも無邪気な目が必要なことを、7/24として無邪気さがある仕事をすることを現実的な選択として認める。青い目が欲しいに留まることなく、青い目が欲しいと思う黒い目を人工的な自然として日常として作りだす意志を持ち始めている。私はその意志に付き合う。


P.S.
Some of us cannot speak , but が頭で何度も鳴っている、意味もなく。

続き

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