見出し画像

ある切片からの粗悪な連結

先日、友達に手書きの文字が見たいと言われ、昔書いた小説の一節を送った。書き直す際その時の感覚で少し言葉を変えていてその変えたものを送った。その時の感覚を思い出している。


基本的に自分が書きたいものは自分には理解できないところが残っているうえで読みたいものだから、自分が読みたいと思えないものは書き続けられないと思っているのだけれど、自分が読みたいと思えるものを生み出すことって簡単なことでもないからどうしようかなって。おもろい(いんたれすてぃんぐな)ふぃくしょんを書きたいとは思っているけれど、章立てやらキャラ付けしたうえで書くのも苦手だし、何よりぴんと来なくて、どうしようって。設計図ができた途端に退屈になってしまうから、設計図なんて作りたくないのもあって。そんなこんなでどうしても前に進めなくなってしまう。それにちょっとまじめな文章を試しに書いてももうこんな面白くない物を書きたくないって強く感じるし、事件性の高いようなものを書こうとしたとしてもそういう面白さの何が面白いんだろうっていつのまにか感じる。
だからねじけた文章しかほとんど書いていないのだけれど、もうちょっと大きくて固体感のあるものを書きたいよねっていう感じも強くなってきていて。

多分、最適化されたあらゆるものが苦手で、だからといってちりぢりになったものを書くだけでも行方不明になってしまうというか高次の交互作用がないものしか生まれないのもあれだから、部分最適化みたいなところを探りたいんだろうなっていう感覚なのかもしれない。それがもう少しまとまったふぃくしょんを書きたいっていう感覚につながっているのかもしれない。

はて、どうしようって。それが少しだけ自由時間ができ始めた今感じていること。自由時間は簡単にすぐに閉じてしまうのだから。


そのちょっとした閉塞感のようなものの突破口に最初に書いたようなやり方がなってくれるかもしれないと思っている。

編集し直すこと、というより、翻訳すること。

一本だけ書いた小説のようなものを直したいと思っていたけれど、それは直したい・最適化したいというわけでもないから、どう手を出せばいいのか困っていた。
そのような感覚的問題には翻訳だったり、リミックス版を出したりするような感覚のほうがうまくいくかもしれない。いやうまくいくというよりも面白がれて続けられるかもしれない。

今思えば、はじめての小説(というよりも一本しかある程度ちゃんとしたのは書いていない)も日記を詩にしたものをリミックス・コラージュで出来上がっているのだし。そうなった場合に出来上がるのは何なんだろうって想像すると、無限に続く離散的な切り絵のようなものになる。切り絵自体を切って張ることも可能な。

どれくらいここに載せるかはともかくそういうものをライフワークにしようかなって。というよりももともとその気が強いので、続けようかなって思いました。

なのでもっとよくわからない、切片の増殖と切片の連結の両方をやっていこうかなって。
凝結核を置くことと、凝結させること。それから雪だるまを作る感じ。
そういった場合にやっぱり切片は詩のようなものと日記がほどよい気がする。詩でも日記でもないような。連結はふぃくしょんがいいのかも、というより粗悪な生成AIがいいのかも。

いいなと思ったら応援しよう!