幼い頃私は、多分ジェンダーについて悩んでいた
父は男の子がほしかったらしい。私が生まれたとき「女の子ですよ」と言われた父は、がっくりと長椅子に座り込んだと聞いた。失礼な。
だからなのか、父は幼い私に、段ボール工作の本を買い与えたことがある。私はそれを読み、昼間せっせと段ボールであれこれ作り、夜帰宅した父にそれを披露していた。
庭で遊ぶときは、父が使っていいと許可したノコギリや金槌で大工さんの真似事をした。子供の力ではなかなかノコギリの刃が木材へ真っすぐ入っていかない。釘も打つと曲がってしまう。父は時々、少ない言葉で指導してくれて、私もそれとなくできるようになっていった。
一方で、祖母に教わりながらコタツでお裁縫もした。これも遊びの一環だったので、玉結びと玉止めを教わり、あとは縫い方などの雑談をした程度。好きなように布を縫い合わせていただけで、ちゃんと何かを縫えるようになったわけではない。
料理もそれなりに触った。母から火と包丁の使い方と危なさを教わり、時々私が昼食を作ったりした。それと親戚がリンゴ農家だったため、我が家の冬のおやつはリンゴ。小学校へ上がる前から当たり前に果物ナイフを持たされた。両親共働きで祖母も忙しかったから、自分でリンゴの皮をむけなければ、おやつはないのである。
こうしてみると、我が家はまんべんなく多方面に触れる家庭環境だったように思う。
*
幼稚園に入ると、毎日幼稚園バスで通うようになった。バスの中ではいつも動揺やアニメの主題歌などを流していて、カセットテープは持ち込みOKだった。私もたまたま、親戚のお下がりで子供向けのカセットを持っていたから、バスに置いてもらった。
「今日はどれをかけようかなー?」
幼稚園バスの窓枠に差していたカセットを先生が選び始める。すると何人かの女の子が、
「ピンクのがいいー!」
と元気よく声をあげた。
ピンクの、とは私が持ち込んだカセットのことだった。それがピンク色なのはわかっていた。だけど私はこのとき初めて、そのカセットが他の女の子たちに「ピンク」と呼ばれたことに少なからず衝撃を受け、ピンクについて深く考えることになる。
今思えば、何個もあるカセットの1つを離れたところから示すのだから、色で伝えるのは当たり前である。だけどこのときの私は、そのカセットの最たる特徴がピンクであること、女の子たちが嬉しそうにピンクピンク言っていること――どんな曲が入っているかより、ピンク色であることに喜びを感じていることに、驚いた。
例えるなら、今まで普通に付き合っていた彼女が、他の男たちに見せた途端、かわいいかわいいと連呼されて戸惑っている彼氏の気持ちだろうか。え、そうか、お前、世の男たちに人気あったんだなあ、と。
そしてその次の段階としては、じゃあ今までこの彼女を、彼らのようにかわいいかわいいとは思わずにきた俺ってどうなの、ということである。
つまり――ピンクのカセットを持っていたにも関わらず、それがピンクであることに別段意識を向けず、他の女の子たちがピンクに喜びを感じていることにも気づかず、自分はなんらピンクに感動もしていない。こういう私って、もしかして女の子として何か欠けているのではなかろうか、ということ。
姉がわりとピンク嫌いで、水色の方が好きだと言っていたのを真似していたせいもあるかもしれない。当時はまだ昭和で、ランドセルは男の子が黒、女の子が赤。そんな時代だ。
幼稚園バスの中で、私は多分、初めてジェンダーについて考えたのだろう。幼い私には難しすぎてよくわからないことだったが、とりあえずその時代の一般的な女の子イメージから、私は少し外れているのではないか? という違和感を感じた出来事だった。
*
小学校へ上がった私は、あるとき決定的な男女の区別を思い知ることになる。
あれはたしか、敬老の日の祖父母参観だったと思う。おじいさんおばあさんたちと一緒に2チームに分かれ、お手玉か竹馬を作ることになった。
事前にどちらを作りたいか希望を取ることになり、親に聞かれた私は迷わず「竹馬」と答えた。理由は、お手玉はすでに持っていたし、竹馬は一度やってみたいと思っていたから。
当日――
クラスの私以外の女子は全員、お手玉チームだった。そして男子は全員、竹馬チーム。
「何かを間違えた」と、はっきりわかった。
私、やっちまったな。
そうかこういうことか、と。
クラスのみんなはきっと、お手玉を作りたい、竹馬を作りたい、という「気持ち」で選択したのではない。女子はお手玉、男子は竹馬、という空気を読んだのだ。それも、とても自然に。
きっと先生も、そういうつもりでお手玉と竹馬をあげたのだろう。
だったら最初から、男子は竹馬、女子はお手玉だと言ってほしかった。それか3つ目の選択肢を用意するとか。
疎外感。
空気を読めていないこと。
私以外の女子が誰一人として竹馬を希望しなかったこと――
なんとも言えない悲しい気持ちと、羞恥心に襲われる。そのことを悟られまいとして、私はただただ笑顔で竹馬作りに専念した。クラスの男子全員とおじいさんたちにまじって。
完成した竹馬に乗ってみる。竹馬は難しそうなイメージがあったが、思っていたより簡単に歩けた。上手に遊べたが、楽しい気持ちにはなれなかった。
*
4年生くらいになるとクラブ活動が始まった。お裁縫やお菓子作りをする家庭科クラブは、ほとんどの女子が希望したし、女子しかいなかった。
私もそこは、空気を読み違えずに家庭科クラブへ入った。そもそも当時はお裁縫が好きだったし(今はそうでもない)、お菓子も食べられるから、それで良かった。
記憶があやふやだが――そんな家庭科クラブに、ある年、男子が1人入ったのを覚えている。彼がお裁縫をする姿は微笑ましかったが、やはりとても目立っていた。
だけど私としては嬉しい存在で、頑張れ、負けるな、と心の中で応援していた。どうか彼が、「間違えた」と思わないようにと。
そんなふうにして小学校生活は終わり、中学になると、世の中が少し変化を迎えた。それまで男女が別だった技術と家庭科の授業が、男女一緒になったのである。喜ばしいことではあるが、技術の授業はあまりおもしろくはなかった。
*
ジェンダー問題に関する話題は、今の今まで自分のこととしては受け止めていなかった。だけど、ふと子供の頃を思い出すと、もしかしてあのとき抱いた違和感や疎外感みたいなことが、今世間で言われていることに繋がっているのかもしれないと、急に実感が湧いてきた。
そういえば専門学校へ進んだときも、私が入ったコンピューターグラフィックス科は女子が極端に少なかった。「CGをやりたい!」と飛び込んだわけだが、素直に自分のやりたい気持ちに従うと、どうやら私は、いわゆる男世界の方に寄ってしまうらしい。
だけど、その時代では男女の比率がそうだった、というだけのことで、何年か経てばその比率も変化しているだろう。だって私が子供の頃は、男性の保育士さんや看護師さんなんて一度も見たことがなかったけど、今ではわりと普通に見かけるから。
手相や生年月日などから占ってもらったときには、「男性だったら良かったかもね」ということを言われたことがある。女性としては生きづらく、男性だったら存分に発揮できるような気質ということなのだろう。
だけどこれだって、今の時代がそういう社会を形成しているから、ということであって、少し先の未来ではどうなるかわからないものである。
現に今の私は、誰かの妻という立場ではなく、独身となって新登場した。今後結婚する気はないから、将来母が逝ったあとは、世帯主となる。「〇〇の奥さん」や「〇〇ちゃんママ」みたいな称号とは無縁で、私は私、ただ一人の人間として生きていく。
そうなるとむしろ、持って生まれた気質やら運気やらが存分に発揮されるのではないかと思っている。
どうやら未来は、私の方に寄ってくるようだ。
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