苦の消滅実験 差異をなくして一致させる
Spotifyの『a scope』仏教シリーズ。
このシリーズは私にとって得るものが多かった。
中でも、その後の私に一番わかりやすく影響したのが、ゲスト松波龍源さんが語ったこの言葉。
――お釈迦様が発見した苦の発生源、正体というのは、「エゴ」だった。
子供の頃から近所の禅寺と関わってきたこともあり、仏教関係の本やテレビ番組は、好んでふれてきた私。だからエゴとか、執着とか、期待するから苦しむんだとか、そういったことは耳タコレベルで聞いてきた話のはずだった。
それなのに、なぜかこのときは、心に響いた。
松波龍源さんのズバッとした言い方が良かったのか、はたまた私が、たまたま響きやすい心境だっただけなのか。
いずれにせよこの言葉をきっかけに、私の中で「苦」と「苦の消滅」について、驚くほど理解が進んでいったのだった。
はたしてそれがお釈迦様が説いたことと同じかはわからないが、今この瞬間、私がはっきりと理解したと思えたことを絶対に取りこぼすまいとして、あわててノートにペンを走らせた。
*
「苦の正体は、エゴだった……」
言いながらノートに書いたのは、1点からV字に伸びた、2本の矢印。11時と1時の方向と言ったところか。
11時の矢印には「理想」。
1時の矢印には「現実」と書く。
そして2本の矢印が作る角に、「苦」と書く。
「と、いうことは、だ」
頭の中で、2本の矢印がスススス……と角度を狭めて近づいてくる映像が浮かぶ。時計の長針と短針が12時を示すように、2本の矢印がぴったりと重なった。
「ここが一致していれば、苦しまないってことか」
これが私なりに気づいた、「苦を消滅させる方法」である。
*
「苦を消滅させる方法」に気づくと、次はそれを使いたくなった。日常生活で苦が生じると、「待ってました」とばかりに試してみる。
例えばーー
地域の同年代の女性だけが参加する集まりに行くの、ちょっと嫌だなぁ、と思うこと。
嫌だなぁ、と苦が生じているわけだから、そこには「差異」があるはず。
ではどんな「差異」があるのか。
……と考えてみたところ、無意識に自分を良く見せようとしていたことに気づいてしまった。
(この時点で結構恥ずかしい)
それはなぜか。
みんな勤め人だから、適度に忙しそうにしていて、なんとなく身なりもいいように見える。その中で、見劣りしたくないという気持ちが働いた。
(この作業、やってみると自分のコンプレックスに気づくことになるので、かなり恥ずかしい)
つまり「気にしている自分」と「本来の自分」という差異が生まれている。
これが苦の正体。
(そして自分が気にしているほど他人は注目していないってパターンに決まっているので自意識過剰っぷりを自覚してますます恥ずかしい)
苦を消滅させるには、差異をなくせばいい。
背伸びをせずに、自分のままでいればいい。
これが自分だ。
こうやって生きているんだ、と。
あと、他者の気持ちなんて心配したって本当のところはわかるわけがないのだから。悩むだけムダ。
――ここまで考えて、ふと気づく。
「ありのままの自分を受け入れる」みたいな言葉。耳タコで正直うんざりしていた。だけど、つまりこれも、だから「差異をなくす」ってことなんだ。
例えば、その2。
過去を思い出してクヨクヨする。
将来を思うと不安になる。
お釈迦様は言ったそうな。
「過去はすぎたこと。未来はまだ来ていない」
要するにこれも悩むだけムダってことなんだろうけど。おっしゃるとおりなんだけども。
私なりに解きほぐして考えてみると、こういう過去や未来への苦にも「差異をなくす」が使えると思う。
過去にしろ未来にしろ、「今」とは時間的な差異がある。
過去を思い出してクヨクヨする。
そのとき心は「今」にない。
未来を思って不安になる。
そのとき心は「今」にない。
自分は「今」にいるのに、心は過去やら未来やら、ズレたところにいる。
これが差異。
これが苦の正体。
差異をなくすには、心を「今」に持ってくること。「今」に専念すれば、差異がなくなり、一致する。
苦が消滅する。
――ここまで考えて、またまた気づく。
耳タコワード「今やるべきことをやれ」「今を生きろ」みたいな言葉って、だからつまり、「差異をなくす」ってことなんだなと。
延々と遠回りしてようやく気づいたのかと自分でもあきれるが。だがしかしこういうことは、簡単に答えをもらうより、プロセスが大切なのだ。
*
仏教や何かでよく聞く、「自分と他者はひとつである」「同じである」「だから自分のことのように他者を思いやるべき」――みたいな考えについて。
量子や唯識などから説明を見聞きしたものの、この「自他一如」の考え方については、残念ながらピンとこなかった。何十冊か本を読んだらスッと理解できるのかもしれないが。
だけどこの前、マンガ『約束のネバーランド』を初めて読んだときに、ちょっとだけピンときた。
物語の前半部分、エマがハウスの秘密を他の子たちにも話すことにしたくだり。あそこを見たときに、「差異をなくして一致させる」がハマった。
つまり「自分」と「他者」を一致させる、ということ。
「あの子たちには理解できないだろう」「対応できないだろう」みたいな考えは、差異――つまり苦を生む。
これを「あの子たちも自分も同じ」とするならば、差異はなくなり、一致する。
苦は生じない。
作中では、エマが他の子たちを自分と同等に扱ったことで、苦が消滅していったように私には見えた。
ただ、エマのように上手くいけばいいが、思ったとおりにいかない場合は、また「理想」と「現実」の差異ができて、苦が生じかねない。
お釈迦様が言ったとおり、この世は基本的に苦なんだなぁ。
*
今思えばーー
私がこれまでの人生で体験した「最大の差異」は、病に侵されたときのことだった。
何年も激痛に襲われていたあの頃。
毎日毎日、痛みと悔しさの中で「こんなはずじゃなかった」「なんで私が」と呪いの言葉を吐いた。
こんなはずじゃなかった――
この思いは、とてつもなく大きな差異を生む。そして大きな差異は、大きな苦を生む。
「こんなはずじゃなかった」と思っている間、病は悪化しかしなかった。
差異をつくらず、素直にシンプルに「病人」として一致した日々をすごしていたなら、もしかしたら何か違っていたのでは、と今なら思う。
いや、やめよう。すぎたことだ。
「未練」は禍々しい差異だ。
どうせ考えるなら、「実験」として淡々と扱おう。執着しなければ、きっと苦もそんなに発生しないだろうから。
少ないながら、これまで行った実験によると、「差異をなくして一致させる」を行った場合、私の中に発生した苦は、今のところ見事に消滅していった。
この方法でどこまでやれるか。
すべてに使えるのか。
自分のことや、テレビで見るニュースの当事者になったつもりで、日々実験を試みている。