映画「メタモルフォーゼの縁側」感想~岡田惠和の魔法の使い方~
どんな感じかなと見始めると、芦田愛菜の鬱々とした表情を、とても魅力的に映していて、あ、これはいいかもと見進める。
主人公うららは漫画家への憧れや夢を持ちながらも、自分の可能性を信じることができなくて、途中途中でつまづいたり、立ち止まったりする。目標を定めて努力するクラスメートにもやもやする。その前へ進みたいけど進めない感じが、いい。
途中には、彼女たちが夢中になる漫画を描く漫画家の苦悩も挿入されていて、どこか「ルックバック」のような、夢に向かう難しさ的なテーマも挿入されていく。
途中で気になってスタッフを見ると、脚本は「ちゅらさん」「ビーチボーイズ」に続いて岡田惠和。この冬は岡田さんに出会う冬なのか。でも、シンプルで真っ直ぐな物語を丁寧に紡いでいくのが本当にうまい脚本家ですよね。
岡田さんの脚本のどこに僕は惹かれているのか。途中からは、そんな気持ちで物語を見ていく。
「悪人が出てこないこと」それはわかりやすい特徴だ。今回は原作のある作品だけど、これまでの岡田脚本のひとつの特徴。それが牧歌的な世界を生むし、一方で「リアリティがない」という批判を集めてきた。
(この作品でもそんな指摘は多かった)
しかし、それはそれで岡田惠和の本質をとらえた指摘だと思う。
もっと言えばこうだ。岡田は脚本やドラマを通じて、こう主張しているように思える。
「悪人を描けば、ドラマは面白くなるのか」
「はっきりとした悪人がいる世界の方が、リアルから離れているのではないか」
キャラクター設定だけではない。ストリー展開においても、そのポリシーは貫かれている。主人公がBL好きだということがクラスメートにばれてしまった時、多くのドラマだったら、そこから心ない友達に嘲笑されて、辱められる展開となる。僕もそんな展開を予感して、痛々しい気持ちになった。
でも「メタモルフォーゼ」では、そうはならない。スクールカースト上位の女性は「それ、面白いの?」と、薄い関心を示して終わる。
また主人公がマンガが描けないのに、宮本信子演じるおばあちゃんが先走って、印刷の段取りを付けてしまう場面。普通ならば、年の差のある友情が壊れてしまうシーン。でも、主人公はその場では固まってしまうけれど、心を閉ざすことはない。困ったなぁと思いながら、なんとかもう一度書こうと努力をする。
物語の分かれ道。そこから暗い展開にも「行くことができる」分岐点を、ドラマは示して、そこからその方向にあえて行かない。そのことで、その選択は意図的なものだということが明確に指し示される。
それを、ご都合主義とするのは簡単だ。しかし、それは「余命半年」的なご都合主義ではない。丁寧に言うのであれば、「こうであることも可能だ」と岡田が考える現実。世界はこうあるべきだ、と信じる現実に沿ってドラマを作っているように思える。
ドラマの中ですら夢を見られないのか?
人間の可能性や良さをこそ、ドラマは示すべきなんじゃないか?
そんなメッセージ。
ドラマという影響力のあるメディアの中で、岡田は自らの魔法を世界を明るくする為にだけ使おうと心に決めているようだ。
そして主人公うららが描いていくマンガ。途中段階では、その作画の稚拙さに「これは絶対に失敗するやつだな」と覚悟させられる。
そして映画の後半で、完成させたマンガの全編が明らかにされる。
タイトルは「遠くから来た人」
絵は下手だけど、その作品は本当に素敵。僕は映画とは関係なく、作中の漫画に感動し、そして打ちのめされた。
絵がうまいとか、下手とか、そんなことは本当に関係ないのだ、と。うららに特別に才能があったからではなく、誰かが一生懸命に描いたら人の心打つ作品を作ることは「可能」だ。そんなメッセージ。
(原作者の鶴谷香央理さんが描いたのだから、下手だけど素人の作品ではないのだけれど)
そして何気ないけれど、映画の折々で鮮やかな印象を残したのは、どこかに駆け去る時の芦田愛菜の足の速さ。
どんなに鬱屈していても、走り出すそのスピードにあふれ出してしまう生命力。若いというだけで溢れる希望。その眩しさ。
もしかしたら、それなりに有名な作品なのかもしれませんが、観てない方はぜひ。特に、心が弱まっている夜なんかにちょうどいいです。
なんていうか、温かいスープのような、具体的な効能がある作品でした。