もう、母にナイフ(自分の基準や常識)を向けない
今日、母親と会った。母は食べる意欲がなく、声も小さく、今にもこの世から消えそうだった。
特に気になったのは、「自分はわがままだ」と自分を責めていることだった。一人で暮らしていると、掃除や日記などを「今日はいいや」と先延ばしにするからだという。
母にとって、一人で暮らして甘えてしまう人は「わがままな人」だ。しかし、「きちんとした人」は、先延ばしをせず、整理整頓をきちんとして家族と仲良く暮らしている。母は、自分が「きちんとした人」でないから、私や弟が一緒に住みたいと思わないのだと思っている。
しかし、実際には逆である。母は、やんちゃな亡き父を何十年も支え、わがままを言わず、我慢して生きてきた。
では、なぜ母は自分をわがままだと責めるのか?理由の一つは私にある。何十年もわがままを言わなかった母に対し、私は今年の正月に強く責めてしまった。数年前から、もしかしたら何十年も前から、私は自分や社会の基準(常識)を母に押し付けてきた。
「掃除や日記が続かない」ことだけでなく、「膝が痛いのになぜ病院に行かないの?」「熱中症のニュースを見たのに、なぜ冷房をつけないの?」「何が食べたいのか教えて」「どこに行きたいか教えて」など、会うたびに無意識に話し続けた。母が大切にしてきたことを否定してきたのだと思う。
何十年もかけてやっとわかったことは、自分の世界と母の世界は違うということ。だから、自分の基準を母に押し付ける意味はない。押し付ければ、母はずっと苦しかったはずだ。今日のように、食べる意欲、もっと言えば生きる意欲をなくすほどに、母を追い詰めたのかもしれない。
私はもう、母に押し付けない。だから、掃除や日記が続かなくても、病院に行かなければと無理に思わなくても、自分を責めないで、そのままでいてほしい。
どうか、ごはんを食べて欲しい。そして、生きて欲しい。