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農的暮らしに関する散文(2)

余剰がギフトエコノミーの基盤である”という私論は、それだけでは不完全である。なぜなら、”余剰は争いの原因”にもなり得るからだ。

<余剰>がもたらす効果に関しては、もう少し熟慮しておくことが必要である。

定住革命から考える<余剰>

<余剰>が大きく課題として顕在化したのは、おそらく定住革命によってであろう。
遊動生活においては食べ物を常に追い求めなくてはならないのに対し、定住は食料の貯蔵を可能にし、また重い土器や石器の所有を可能とした。

★縄文の生活誌 日本の歴史01 講談社 | 岡村道雄

「定住が確立してくると、集落は大きくなって人口も増え、集団内に軋轢や矛盾が生じやすくなった。余剰生産物が生まれて、それを独占したり直接生産に従事しない人々が出てくる可能性が生じ、固定した上下の人間関係が生まれる危険性をはらむようになった」(縄文の生活誌 p220)

<余剰>は分配の問題や、階層化の問題が生ずる元であった。

そこで集落は、祭りを執り行って大量消費をしたり、集団としての意思統一をしたりして、集団の結束を図るようになったのである。

また、こうした人間関係の平穏を重んじる知恵は、集落の形状にも表れた。

「円滑な人間関係を保ちたいときや集会をスムーズに運営したいとき、また居住地を設定する際、中心を空にしておくと平等を保ちやすく、”環”は最も安定した構造と言われている(縄文の生活誌 p220)」

このように、初期の定住文化には、<余剰>から生まれる集権を嫌い、定期的に個の力を崩す精神的な行為が文化として備わっていた。

狩猟採集社会で準備されていたモラル

余剰の分配の問題を考えるとき、鍵となるのは道徳・良心・利他行動である。

モラルの起源 白揚社 | クリストファー・ボーム

このようなモラルは、定住社会の中で初めて生み出されたものではない。すでに狩猟採集社会で準備されていたのである。

生物学者リチャード・D・アレクサンダーによると、狩猟採集民にはすでに間接互恵のシステム「今日だれかに寛大に接すれば、自分が必要とするときに誰かが寛大に接してくれるであろう」という、一般的には損を生みえる仕組みが存在していたと指摘している。

また、間接互恵の前提には社会に対する信頼共感余剰がベースにあったと考えられる。

「自分が助けている人との間に社会的な絆を感じる限り、コストが大きすぎない限り、そして長い目でみてシステムがひどい不運に備えた保険になると感じる限り、人間には生まれつき人助けとなる協力に前向きの反応を示す傾向がある、と私は思う」(モラルの起源 p226)。

とりわけ、共感(empathy)は重要である。共感は他人がどう感じて何を必要としているのかを感じ取る能力であり、人に与えたり分配したりすることに喜びを感じる感情である。この感情がなければ、間接互恵は存在しなかったかもしれない。

狩猟採集民は血縁者以外も助ける傾向にあった。血縁者でない受益者から同等の見返りが得られるという社会契約がなくても概ねそうしたのである。
これは生物としての進化を考える上では特異なことであった。

短絡的に外側から見れば受益者側に有利なこうした仕組みも、逆にこうした利他的な間接互恵のシステムが長い進化の過程で残されてきたことから考えると、先時代に我々の種を作り上げる際に有利に働いた結果である可能性が高いと考えられる。

いずれにせよ、間接互恵のシステムは、狩猟採取民の社会を下支えする仕組みとして、古くから存在していた。

近代哲学における自然状態の意味

★基礎づけるとは何か ちくま学芸文庫 | 國分功一郎/長門祐介/西川耕平

ルソーは言う。「牧人は、活動することが少なく、平穏であることが多い。(中略)ここには余暇と怠慢な情念の誕生がある。(中略)新たな利害と欲求は定住の開始と切り離せない」(基礎づけるとは何か p217)

(驚くことに、ルソーも<定住>と<余剰>を関係づけて考えていた)

ルソーの考えを簡単に咀嚼すると、<定住>から余暇が生まれ、そのことが自分のために動きたいというエゴを生み出したと言う。

身体的な行動が少ないときには熟慮と復讐の道徳が発見される。個人は、その種と一体になるのをやめる。(中略)これこそ不平等と利己愛に向かう第一歩に他ならない(基礎づけるとは何か p218)

しかし、彼が提唱するところの一般意志や社会契約といった概念も、実は人の良心を前提としている。ルソーは良心を自然のものとして捉えていた。
大事なのは「均衡」である。

ルソーにおける自然状態とは、<力>と<欲望>は「均衡」を意味していた。

「欲求は自然なものであるから、肉体的必要性の範囲に収まっており、それを感じる者のもつ諸々の力を超えて出ることはない。われわれの欲求はわれわれの力と釣り合いが取れており、われわれの力はわれわれの欲求と釣り合いが取れている。相互の調整が働いているのだ」(基礎づけるとは何か p205)。

例えば、誰かが育てた野菜が欲しいと言ったとき、赤子のように気のそそるものすべてに無制限の欲望が働いていれば、それを奪うだろう。でもそうはならない。自然に自制して、均衡した行動しかとらないのである。

ルソーはこうした「均衡」の取れる人間形成を目指して教育を、そして社会制度には契約という手段を残すのであった。

学びの摘み取り

ここまで<余剰>を切り口に、縄文時代-狩猟採集時代-近代と、時代を横断して論をまとめてきた。

とりわけ私を安心させたのは、人間の良心は、狩猟採集民より培ってきた間接互恵のシステムであり、人間に”備わっている”という事である。

そして私は、<余剰>はギフトにも争いにもなり得るが、うまく信頼共感余剰をベースにした社会デザインができれば…などと妄想を始めるのである。

(続く)

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