多様性って難しくない?
寒いけれど、暖房入れない私です。喉がやられてしまうのと、空気が乾燥しすぎるとうちの爬虫類くんたちがカラカラになってしまうからです。上着着てる方があったかいし、win-winです。
今回は、多様性ってどうしたら培えるのかについて考えたいと思います。前回書いた主体性に関するnoteですがそれの最後に綴った違和感しかないの違和感を考えていきたいと思います。(完全自分の考えなので思考が反社的になるかもです。ご注意ください)
では初めに、その主体性に関するnoteを貼っておきます。10/10全力で書いたつもりが、1日経つだけで3/10ぐらいに感じます。私の密度が上がってきている証拠かもしれません。現在暇人ですからね。
では早速、多様性について考えていきましょう。私が多様性ときいて思い浮かべるのがこの図
日頃社会から私たちにアプローチされている多様性とその受容であるが、私と言う存在が異なる種類の相手やその向こうにいる他者を思いやってあげよう。って言うのがよく言われていることだと思います。
グローバル化に伴って異なる文化的背景を持つ人ったちが私たちの生活圏に影響を及ぼす距離に増えてきたってことですよね。
この時に注目して欲しいことは、受容するべきと言われているのが目の前の相手やその向こう側にいる他者であると言うことです。ここで私が言いたいことは、ことの初めにいる”私”のことはいったい誰が受容してあげるのだろうかと言うこと。
元々私と言う存在もこれを読んでいるあなたも、完全完結のオリジナリティを持っているものではありません。例えばですが、トマトが嫌い、花粉症、海が好き、自然が好き、英語が苦手などなど数えきれないほどの多くの特徴を持ったものの結果が私であって、あなたなのです。
全く同じだけ異なった特徴を自分も有しているのに、他者理解を他者理解をとよく耳にします。一番初めに理解してあげないといけないのが私自身についてなのではいけないのではないでしょうか。
その一番初めの私を私が理解し受け入れてあげている際に、他者と関わることで出てきた私にきっと会うことになります。例えば、世話好きとか褒められると伸びるとかです。この特徴たちを考える時に必然的に相手を考えることへと繋がっていきます。それこそが多様な社会への第一歩なのではないでしょうか。
そして、その相手を考えている間にまた同じように問題に直面します。それが私と他者との初めての接点になるわけです。それを繰り返すごとに私を中心とした世界が広がっていくのではないでしょうか。あくまでも私が中心にいるだけで私が支配した世界ではありませんよ。自分を正しく理解することが最終的には見知らぬ他者を理解し、結果として多様な特徴を持った文化が構成されていくのだと思います。
「じゃあ、何度も理解のサイクルをしろって?」そうではありません。すでに私たちの隣には今までの私が知り得なかった相手がいるはずです。自然とやっているはずなのです。
しかし、少し勘違いがあるような気がしていてそれは、受容してあげるってな感じになっている現状です。受容はあくまでも能動的に行うべきものだと思います。(私は!)ですが、社会に溢れている多様性と受容においては、「いろんな人がいるんだ認めて仲良くやれ」と私たちに受動的な態度を取るように呼びかけていませんか。
人の権利が侵害されているなどの問題がその背景には孕んでいますが、長い目で見た時に勘違いなく持続可能な理解と受け入れはどちらになるでしょうか。私は私が書いたようまずは自分を認めることが相手をそしてその先の見知らぬ誰かを認め、共に生きることへと繋がると思っています。
文化・宗教によっては皆平等で仲間であると言う考え方もありこちらもすごく面白いですので後々noteにしたいと思ってます。私たちは最終的に閉じたコミュニティへと移行し落ち着いてしまいます。しかし、自然と閉じたものを閉じたままにしておく美徳とはいったい何なのでしょうか。また、自然と開くものを頑に内側から押さえ込んで何になるのでしょうか。
朝顔は朝が来ると花を開かせるし、ひまわりは太陽を追いかけます。ついついそういった行動を私たちもとっているはずです、それをちゃんと理解して太陽を追いかけることを楽しめればなんだかんだ多様な社会になっていくのではないでしょうか。
書いてみたけど、なんか偉そうになってて笑う。私が言いたかったのは、多様性と受容は受動するものではなく能動的に動くものであって、そのスタートは異なる他者ではなく自分自身だと言うこと。