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農のある暮らし#4

#4 農村と都市計画とまちづくり

農村と対立する都市計画

日本の都市計画には、農業の概念はない。都市は、農村と対立概念であり、都市計画区域自体が、農村以外の都市部を指す言葉だからである。都市計画自体が農村と都市部を明確に区分けして、都市は計画的に作らなければならないという思想に基づいて作られている。

ヨーロッパでの都市と農村

ヨーロッパの都市とは、敵から都市そのものを守ることを目的としており、都市とその他の地域を城壁で分けて考えている。そのためヨーロッパでは、都市と農村の区分ははっきりとしていて、電車に乗っていると突然農村エリアになる。

日本のまちなみ

一方で、日本のまちなみはどうだろうか?
戦前の日本の都市の街並みは、西洋から学んだ都市計画を真面目に実現しようとする努力が見られた。
しかし、戦後焼け野原となった日本は、復興するのに精一杯で、焼け野原となったエリアでは、復興による区画整理が進み、一気に近代化を果たすこととなったが、逆に空襲の被害を遭わなかったエリアは、インフラの整備が進まずに、その後の高度成長期に都市化が進むこととなり、密集地帯となり、その後再開発や区画整理を多額の費用をかけて行う必要が生じることとなった。

日本の農村

一方で、日本の農村については、既存の集落単位での農業の営みを継続することが優先され、まちづくりという観点では、あまり進んでこなかったと思う。
逆に近代農業化を進めるために耕地整理された田畑が、戦後の住宅難の影響で、次々に宅地に転用され、せっかく農業インフラを整えたのも束の間、住宅地に姿を変えていくこととなった。

そうして都市がどんどん魅力的な場所になっていく一方で、農村は取り残され続けて、一向に豊かになれずに、離農する人が増え、結果的に地方が疲弊することとなった。

日本の強さの根源は地方の強さにあった?

日本が明治維新から坂の上の雲を目指し、戦争で焼け野原になっても戦後力強く復興し続けられたのは何故か?それは都市部に人材を送り続けられる強い地方があったからではないだろうか?

地方が衰退すると日本が弱くなる

そして今、都市部が地方を吸いつくし、地方では若者がいなくなり、都市部では物価が高過ぎて子育てする余力がなくなり、結果として都市部での再生産では人口が増えていかないというのが今の日本の現状ではないだろうか。

都市を計画することの限界

計画的に作った街並みは硬直的で、多様性がなく、変化に追随することができないため、持続的な成長を起こすことができない。
その都市計画ももはやこれ以上床を増やしても、需要が見込めない上に、これまで地方から出てくる安い労働者に支えられてきた工事現場が、もはや日本人の成り手がいないどころか、熟練工も減って来ており、かつてのようなディベロップメントでは立ち行かなくなっている。

都市計画から多様性のあるまちづくりへ

今まちづくりという言葉が盛んに行われているが、もはやこれまでの計画論、理想論でまちを作っても結局は、うまくいかなかったことへのアンチテーゼとして出てきた言葉のように思える。

結局のところ、街が魅力的なのは、街の多様性であり、その多様性とは、色々な人たちが一緒に生活をするということに他ならないのである。

都市の動的平衡

結局のところ都市や農村やまちのあり方というのものに、完成形はなく水の流れのように、変化し続ける必要があるのではないだろうか。
それは大陸のように変化がないような場所と、絶えず変化し続ける日本の風土の違いもあり、まさに風水的な思想で、まちづくりを行う方が、日本の風土にとっては、良かったのかもしれない。
生命の考え方で、動的平衡という考え方があるが、都市もダイナミズムに動く動的平衡をとりながら新陳代謝を行なっていく生命として捉えた方がこれからのまちづくりには必要な考え方なのかもしれない。

農村づくりの政府の失敗

そういう意味で、日本は農村づくりに関して言えば、全くもってして失敗だったいっても過言ではない。
結局のところ、まちづくりの専門家といわれる職能の集団は、結局この100年間都市作りにばかり精を出して、荒れ果てる農村に関しては、まったくもってして積極的に関わってこなかったのである。
お陰で日本の農村の風景は、かつての美しい風景から、みるも無惨な風景に成り果ててしまっているところがたくさんある。
これは農村の価値を農業という一次産業としての側面だけで、政策を進めて来た国策の責任だとも言える。

しかしそれは、かつての農民達が自分たちの権利を守るための保守政党を支持していたために、そうなってしまったという側面も否めない。結局は、毎年同じことを繰り返す稲作文化の農村においては、保守的でかつ長老の意見に従うことで成立して来たために、空気を読むとか、他人と違うことはしないというような特性になっていったと思われる。

結局、変わることのできなかったエリアが取り残され、言い方は厳しいが、絶滅することとなったのである。

結局は、種の進化のように、交雑して混じっていった方が、結果的に相手の特性を取り入れて進化し、発展するというのは、理なのかもしれない。

日本人弱体化の成果

GHQが行った農地開放もこの遠因の一つだと言える。GHQの目的は、日本の弱体化であり、強い日本人を弱体化させるためには、農村の機能を弱体化させることであり、そのために土地の制度を、農地開放の名の下に、農村の土地の所有形態を、農村の共有財産を個人財産に細分化した。まさに戯け者(田分け)の行いであるが、それまでの封建制度から民主化の掛け声のもと行われた。このことにより、それまでは良くも悪くもまとまった集落の単位でまとまっていたが、それが個人の権利となってしまったために、切り替わった当時は、それほど大きな影響はなかったが、世代交代により、それがうまく機能しなくなり、まさに時限爆弾のように、戦後80年経った現在、じわじわと農村を弱らせている。

かくして、日本の農村は衰退していったのである。

では日本の地方は今後どのようにしていけばよいのだろうか?

それは、一次産業をベースとしながらも、自立した地方を再生する必要がある。それは、都市経営的な視点で、地域を再生することに他ならない。まさに、稼ぐ街が地方を変えるである。
これまでの農協の支配を脱して、稼ぐ農村を作ることが大事である。いま元気になりつつある地方再生の事例を見ると、うまく地元の農産物とのコラボレーションにより大きく成長している。
次回以降は、これらの成功事例をいろいろ研究してみたい。



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