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牧師たちの批判を受けた内村鑑三は何を武器にして戦ったか
内村鑑三は名著『キリスト信徒のなぐさめ』の中で、牧師たちから批判された経験を次のように述べています。
「私の神学上の思想についても、私の伝道上の方針についても、私の教育上の主義についても、私は自分の真理と信ずるところを固守するがゆえに、あるときは有名博識な神学者に遠ざけられ、あるときはキリスト教会内において非常に人望のある高徳者から無神論者として排斥され、ついには教会全体から危険な異端者、聖書をないがしろにする不敬人、ユニテリアン(悪い意味で)、ヒクサイト、狂人、名誉を追う野心家、教会の狼などと呼ばれて、私の信仰と行為を責められるだけでなく、私の意志も本心もすべて過酷な批判を浴びるに至ったのです。」(現代語訳Kindle版、p. 29)
ここで「ユニテリアン」というのは、神は単一の神であって三位一体の神ではないと主張し、キリストの神性を否定する教派です。当時、福沢諭吉はユニテリアンに高い評価を与えていたようですが、キリスト教会では異端のレッテルのひとつとされていました。
ここで、「ヒクサイト」というのは、クエーカーという教派から出たヒックス派というグループのことです。クエーカーという教派は、ピューリタン革命の時に英国で生まれた教派です。クエーカーの創始者は、ジョージ・フォックスという人でした。このクエーカーから生まれたヒックス派というグループの創始者は、エリアス・ヒックスという人でした。エリアス・ヒックスは、普遍的救済の信仰を提唱したために、クエーカーから追放されました。このヒックス派のことを、明治時代のキリスト教徒たちは「ヒクサイト」と呼んでいたようです。いずれにしても、当時の牧師たちは「ヒクサイト」というレッテルを貼ることで、内村を批判しました。
内村はさらに続けて、次のように述べています。
「ああ、私は大悪人ではないのか。私は、誰もが博識と認めた神学者から異端と決め付けられたのです。私は本当に異端者ではないのか。私よりも十数年も前からキリスト教を信じ、しかも欧米の大先生からの信用を得て、全教会の指導者として仰がれるある高徳者が、私を無神論者と言ったのです。私は本当は無神論者ではないのか。」(現代語訳Kindle版、p. 29)
このように内村は、牧師たちや高名な神学者から異端者のレッテルを貼られただけでなく、無神論者のレッテルを貼られて批判されました。その結果として、内村の信仰は「風前の灯」となりました。この時のことを、内村は次のように表現しています。
「この時にあたって私の信仰は実に風前の灯のようなものとなっていました。私は信仰の堕落の極点に達しようとしていたのです。(中略)以前聞いたことがありますが、無病の人でも清潔な寝床に寝かせて、あなたは危険な病に冒された患者であるから今は病床にあるのだと側から絶えずその人に告げるなら、無病健全の人も間もなく本当の病人になるのだそうです。」(p. 30以下)
本当は無神論者ではないにもかかわらず、牧師たちから異端者や無神論者のレッテルを貼られて批判され続けると、本当に自分は異端者であり無神論者であるのだと思い込んでしまい、信仰を失ってしまうことがあると言うのです。
当時の牧師たちによる内村に対する批判は、今日の牧師たちによる家庭連合(旧統一教会)に対する拉致監禁・強制改宗を思い起こさせます。牧師たちによる拉致監禁・強制改宗は、無病の人を本当の病人にしてしまうような悪質で残虐な行為でした。監禁された人は、実際にはマインドコントロールされていなかったのに、本当にマインドコントロールされたような人になってしまったのです。
それでは、内村はこの窮地から、どのようにして救われたのでしょうか。神に向かって語りかける言葉で、内村は次のように述べています。
「けれども、神よ、我が救い主よ、あなたはこの危険から私をお救いになりました。人が聖書を用いて私を攻める時に、これを防御できる武器は聖書なのです。教会と神学者が私を捨てても、私がまだ聖書を捨てることができないのは、私がまだあなたに捨てられていない徴なのです。」(p. 31)
ここで内村は、攻撃に対する防御の武器は聖書であると述べています。聖書を利用して攻撃してくる相手に対しては、聖書が防御のための武器となると言うのです。しかも内村は自分が聖書を捨てることができないでいることを、自分がまだ神に捨てられていないことの徴であると理解しました。
さらに内村は聖書について次のように述べています。
「衆人の誹謗に対して人が自らの尊厳と独立を維持しようとする際に、無比の力を与えてくれるのは聖書なのです。聖書は孤独者の楯であり、弱者の城壁、誤解された人物の休憩所なのです。これに依拠してのみ私は法王にも、大監督にも、神学博士にも、牧師にも、宣教師にも対抗することができるのです。私は聖書を捨てることはできません。」(p. 31)
ここで内村は聖書を「孤独者の楯」「弱者の城壁」「誤解された人物の休憩所」にたとえています。教会に捨てられて孤独となり、絶望のどん底に落ち込んだ内村に、無類の力を与えてくれたのは聖書でした。異端のレッテルを貼られて絶望している時でも、私たちは聖書を武器にして、戦い続けることができるのです。信仰の戦いを戦い抜く者でありたいと思います。
🟦内村鑑三『現代語訳 キリスト信徒のなぐさめ』明治キリスト教研究会、Kindle版、2016年。
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