見出し画像

知情意が追求する真善美の価値とは/原理講論研究(10)

伝統的な既成教会のキリスト教は、どちらかと言うと感情の働きよりも知性の働きの方を強調する傾向にあると思います。私自身の経験では、感動することや感動させることの大切さに気づかされることは、既成教会の中では、ほとんどありませんでした。プロテスタントの教会では、たとえば、バッハやヘンデルのような偉大な音楽家の作品が演奏されていますが、バッハのカンタータやヘンデルの『メサイヤ』のような楽曲は、どちらかと言えば、人を感動させるというよりも、神に捧げるという側面が強調されることが多かったと思います。原理講論の画期的なところは、他者を感動させるような善行や美しさを強調している点です。

原理講論は知情意と真善美の関係を次のように説明しています。

「人間の心は、その作用において、知情意の三機能を発揮する。そうして人間の肉身は、その心の命令に感応して行動する。これを見ると、その肉身は心、すなわち知情意の感応体として、その行動は真善美の価値を追求するものとして表れるのである。」(p. 71以下)

ここで、知情意とは、知性、感情、意志という人間の心の三つの機能を表す言葉であり、カントに由来すると言われています。肉身という言葉は、日常生活ではほとんど使われませんが、原理講論では、肉体とか体という意味でよく使われます。人間の体は、知情意の心の働きに応じて、真善美の価値を追求する行動を取るようになります。

さらに原理講論は、神御自身の知情意と人間の心の知情意の関係を次のように論じています。

「神はどこまでも、人間の心の主体であるので、知情意の主体でもある。したがって、人間は創造本然の価値実現欲によって、心で神の本然の知情意に感応し、体でこれを行動することによって、初めてその行動は、創造本然の真善美の価値を表すようになるのである。」(p. 72)

ここで言われていることは、人間の心の知情意の働きの前に、神御自身の知情意の働きがあって、人間の心は神御自身の知情意の働きにあずかるものとされている、ということだと思います。神御自身の知情意の働きが先にあって、私たちも及ばずながら、神の働きに従って、自分の心の知性と感情と意志を働かせます。人間は神御自身の知情意に応じて、心の知情意を働かせ、それに応じて行動し、その行動によって被造世界のありのままの真善美の価値を表現するようになります。

たとえば、空や海の輝きを見て美しいと思ったり、夜空の星の配置や規則正しい運動を見て美しいと感じたりすることは、神によって造られた世界の真善美の価値を表現することです。

言うまでもなく、私たちの行動は真実であることや、善であることを求められます。誠実に行動することや、善行に励むことの重要さは、今さら言うまでもありません。原理講論はそれらの他に、美の価値を追求することを強調しています。画家や音楽家が美しい作品を生み出したり、素晴らしい演奏をしたりすることもまた、神の御旨に適った価値のある行動です。

原理講論が真善美の中でも特に美の価値の追求を強調していることは、感動することと感動させることの大切さを私たちに教えています。ちょうど昨日、Sunday 世界日報の令和6年11月10日号が手元に届きました。その11ページに、「感動する人と感動させる人の特徴」という記事が掲載されています。この記事を書いた鹿島和人さんは、感動する人の特徴として、真善美の価値を追求する能力が高いことを指摘しています。さらに鹿島さんは、感動させる人の特徴として、価値を実現する能力が高いことを指摘しています。具体的には、自分が美しい姿になったり、美しいものを作ったりすることや、他者のために善を実践することなどが挙げられています。

鹿島さんは価値を実現する能力の高さを強調していますが、私はむしろ人間のありのままの美しさを強調したいと思います。神によって造られた私たちひとりひとりの存在は、それ自体で十分な美しさを備えています。たとえ能力は高くなくても、人はそれぞれに他者を感動させることのできる存在なのです。

このように、感動することと感動させることの大切さを教えている点で、原理講論は素晴らしい書物であると言うことができると思います。

🟦 世界平和統一家庭連合『原理講論』光言社、1996年。

いいなと思ったら応援しよう!

岩本龍弘
よろしかったら、サポートをお願いします。今後の活動に生かしていきたいと思います。