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内村鑑三を最も悲しませた背教者とは
「背教者としての有島武郎氏」という記事を取り上げたいと思います。内村鑑三はこの記事を、大正12年7月に『万朝報』という新聞に投稿しました。『万朝報』という日刊紙は、上流社会のスキャンダルを取り上げる新聞でした。内村はこの記事の冒頭で、自分と有島武郎との関係を次のように明らかにしています。
「私は有島君に基督教を伝えた者の一人である。彼は一時は誠実熱心なる基督信者であつた。私は彼の顔に天国の希望が輝いて居た時を知って居る。其時彼は歓喜(よろこび)に溢れる人であつた。彼も私も同じ札幌農学校の卒業生であつた上から、人も私も彼が私の後を嗣いで、日本に於ける独立の基督教を伝ふる者と成るのではないかと思ふ程であった。有島君はたしかに一度は、信仰のエデンの園に神と共に歩んだ人であつた。彼は彼の親友森本厚吉君と共に基督教の大宣教師デビッド・リビングストンの伝記を著した。彼は又私の『聖書の研究』に投書して呉れた。彼と私とは数年間に渉り、善き友人であつた。」(『内村鑑三全集27』岩波書店、p. 526)
ここで内村が「有島君」と呼んでいるのは、作家として有名な有島武郎のことです。今から50年程前の国語の教科書には、有島武郎の作品が教材として取り上げられていましたので、私の同世代の人なら誰でも知っているような著名な小説家です。この有島の名前を知っている人は少なくないと思いますが、この人が実は内村鑑三の弟子であったことを知る人は、ほとんどいないかもしれません。
内村は自分の優秀な弟子であった有島について、「私は彼の顔に天国の希望が輝いていた時を知っている。そのとき彼は喜びに溢れる人であった」と述べています。内村にとって有島は札幌農学校の後輩でもありました。それで内村も内村の他の弟子たちも、有島が内村の後継者になることを期待するほどであったと、内村自身が明らかにしています。さらに内村は、「有島君はたしかに一度は、信仰のエデンの園に神と共に歩んだ人であった」と述べて、キリスト教徒としての有島がいかに優れた人であったかを表明しています。続きを読んでみましょう。
「然るに此人が急に信仰を棄てゝ了つた。たしか明治四十一年であつたと思ふ、私は札幌に於て彼に会うた其時の彼は前の彼とは全く別人であつた。前にはオプチミスト(楽観家)なりし彼は其時はペシミスト(悲観家)に成つて居た。彼の顔に輝きし光を今は認める事が出来なかつた。我等彼の旧い友人は、彼の為にも亦我等の為にも非常に悲しんだ。我等は有島が不信者に成ったとは如何(どう)しても信ずる事が出来なかった。」
このように述べて、内村は背教を告白した有島に会った時の感想を表明しています。もはや有島には、エデンの園を神と共に歩んでいるかのような希望の輝きはありませんでした。信仰を否定する有島の意志が堅いことを確認した内村は、次のような言葉で悲しみの心情を言い表しています。
「私は『有島は最早(もはや)我等の有(もの)にあらず』と諸友人に報告せざるを得なかつた。其時の我等友人一同の悲歎(かなしみ)は非常であつた。私は今日に至るまで多数の背教の実例に接したが、有島君のそれは最も悲しき者であつた。」(前掲書、p. 527)
ここで内村は、それまでにも数多くの背教の実例に接してきたことを表明しています。これは非常に重要なことだと思います。私は今まで、背教者について深く考えたことはありませんでした。しかし、今年の3月末から家庭連合の信者たちと交流する機会を与えられて、背教者の問題は本当に深刻な課題であるとつくづく思うようになりました。内村は数多くの背教の事例の中でも、有島の背教は最も悲しいことであったと告白しています。
内村によると、有島は英国に留学していた時に、クロポトキンというロシア人にロンドンで会っていました。クロポトキンという革命家は無政府主義の革命家で、ロシアから脱出して英国に亡命していました。このロシア人の革命家との出会いが、有島の棄教の原因であったと言われています。英国から帰国した有島は、札幌農科大学で英文学を教えていましたが、辞職して東京に移り、著作家として有名になりました。有島は小説家として成功しましたが、内村や内村の弟子たちからは遠ざかっていきました。それでも内村の弟子たちは、有島がいつか必ず自分たちのところに戻って来るという望みを抱き続けました。
この望みに反して、むしろ内村の弟子たちとは異なる友人を持つようになった有島は、夫を持つひとりの婦人と自殺してしまいました。
有島について、内村は次のように洞察しています。
「有島君に大いなる苦悶があった。此苦悶があつたらばこそ彼は自殺したのである。そしてこの苦悶は一婦人の愛を得んと欲する苦悶ではなかった 此は哲学者の称するコスミックソロー(宇宙の苦悶)であった。有島君の棄教の結果として、彼の心中深き所に大いなる空虚が出来た。彼は此空虚を充すべく苦心した。彼は神に依らず、キリスト其他の所謂神の人に依らずして自分の力で此空虚を充たさんとした、此が彼の苦悶の存せし所 彼の奮闘努力は茲(ここ)に在つたと思ふ。然し乍ら有島君如何に偉大なりと雖も、自分の力で此空虚を充たし得なかった。而已(のみ)ならず、充たさんと努むれば努むる程、此空虚が広くなつた。彼は種々(いろいろ)の手段を試みた。著作を試みた。共産主義を試みた。そして多くの人、殊に多くの青年男女の渇仰(かつごう)を得て、幾分なりとも此空虚を充たし得たと思うたであらう。然し乍ら彼は人の賞讃位で満足し得らるゝ人ではなかつた。彼は社会に名を揚げて益(ますま)す孤独寂寥(せきりょう)の人となった。彼は終に人生を憎むに至つた。神に降参するの砕けたる心は無かつた。故に彼は神に戦ひを挑んだ。死を以て彼の絶対的独立を維持せんと欲した 自殺は有島君が近来屢(しばし)ば考へた事であらう。但し其機会が無かったのである。」(前掲書p. 529以下)
この内村の洞察によると、有島は信仰を棄てた結果として、心の奥底に大きな空虚を抱えることになりました。有島はこの空虚を埋めるために、著作を試みたり、共産主義を試みたりしました。そして多くの青年男女から慕われる存在になりました。しかし有島は、有名な人気者になったことでますます孤独で寂しい人になってしまいました。有島はついに人生を憎むようになりました。神の前でへりくだる心は、有島にはありませんでした。有島は神に向かって戦いを挑みました。死ぬことで、有島は神からの絶対的な独立を維持しようと望みました。しかし有島には、その機会がありませんでした。
では、有島にその機会はどのようにして到来したのでしょうか。内村の洞察の続きを読んでみましょう。
「そして其機会が終に到来した。一人の若き婦人が彼に彼女の愛を献げた。著作に於ても、社会事業に於ても、衷(うち)なる空虚を充すの材料を発見する能はざりし有島君は、此婦人の愛に偽りなき光を認めた。彼は歓(よろこ)んだ。満足した。此は棄教以来初めて彼に臨んだ光であった。寔(まこと)に小なる光であったが、永(なが)の間暗黒(くらき)に彷徨せし彼に取りては、最も歓迎すべき光であつた。彼は既に人生を忌(いみ)し者、而(しか)して婦人は夫有る身であった。此光りは逸(いつ)すべからず、然ればとて此世に於て之をエンジョイする能はず、故に二人相併んで自ら死に就いたのである。正直なる有島君としては為しさうな事である、然し彼は大いに誤ったのである。」(前掲書p. 530)
このように内村は、有島が自殺に至った心理を洞察しました。しかし内村は、決して有島に同情するようなことは言いませんでした。むしろ内村はきっぱりと、有島の誤りを指摘しています。キリスト教徒にとっては、生きることも死ぬことも、自分のためではありません。背教は決して小さな事ではありません。「神を馬鹿にすれば、神に馬鹿にせらる」と内村は述べています。
結びとして、内村は有島の行為に対する怒りの感情を、次のように表明しています。
「有島君は神に叛いて、国と家と友人に叛き、多くの人を迷はし、常倫破壊の罪を犯して死ぬべく余儀なくせられた。私は有島君の旧い友人の一人として、彼の最後の行為を怒らざるを得ない。」(前掲書p. 531)
ここで内村は、間違ったことはきっぱりと間違っていると指摘すること、否定すべきことはきっぱりと否定することの模範を示しています。有島の文学作品は背教者の文学作品であって、決して学校の教科書の教材とされるにふさわしいものではありません。私の世代が有島武郎の作品を学校で読んだことは、内村が願ったことではなかったはずです。背教者である有島の作品が教材とされてきたことの背後には、文学の世界や教育の世界の腐敗があったと言わざるを得ません。
背教者が出ることは、信者を悲しませると同時に、動揺させます。このような揺さぶりは、いつの時代にも起きてきたことです。内村もまた、数多くの背教者の出現に悩まされました。私たちもまた、このような悲しみに今後も直面し続けることになるでしょう。たとえそのような時でも、内村の悲しみを思い起こし、揺さぶられることなく、しっかりと立って、信仰の歩みを続ける者でありたいと願います。
🟦 「背教者としての有島武郎氏」 大正12年7月19、20、21日『万朝報』、『内村鑑三全集27』岩波書店、1983年。
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