天使と人間はいかなる罪を犯したか/原理講論研究(21)
前回では、エバを誘惑した蛇の正体は、堕落した天使であったということを見てきました。今回は、天使と人間がどのような罪を犯したか、という話に進みたいと思います。
天上の世界、すなわち霊界を拠点に活動している天使が、いったいどのような罪を犯したというのでしょうか。原理講論の著者は聖書の御言葉に根拠を求めています。聖書は66巻の文書から成っていますが、その中でも最も短い文書は「ユダの手紙」です。あまりにも短いので、章の区分がありません。聖書の御言葉の箇所は、何章何節という言い方で示されますが、ユダの手紙には章の区分がないので、何節という節の区分だけで表示されます。このユダの手紙の6節から7節までの箇所が引用されています。この箇所を口語訳で読んでみたいと思います。
主は、自分たちの地位を守ろうとはせず、そのおるべき所を捨て去った御使たちを、大いなる日のさばきのために、永久にしばりつけたまま、暗やみの中に閉じ込めておかれた。 ソドム、ゴモラも、まわりの町々も、同様であって、同じように淫行にふけり、不自然な肉欲に走ったので、永遠の火の刑罰を受け、人々の見せしめにされている。
ここで、ユダの手紙の著者は、ソドムやゴモラという名称の町で起きた出来事に言及しています。創世記の12章以下にアブラハムの物語が記されています。アブラハムは現在のイラクに位置するカルデアのウルという場所から、一族を連れてイスラエルの地にやってきました。アブラハムの甥であるロトも、アブラハムと一緒に行動していました。ところがある時、アブラハムの一族とロトの一族は、分かれて行動することになりました。ロトはヨルダン川流域の低地に行くことを選びました。アブラハムは、どちらかと言えば緑の豊かなカナン地方に向かうことになりました。ロトが選んだ低地というのは、ヨルダン川が流れ込む死海の周辺の地方です。死海は海抜がマイナス433メートルであると言われています。つまり、地中海の海面よりも433メートルも低いところに死海は位置しています。アブラハムが向かった地中海に近いカナン地方は、緑の豊かな地域ですが、エルサレムよりも東の低地は、現在でも砂漠地帯が広がっています。ソドムとゴモラは、その砂漠の果ての死海の南部に位置する地域にあったと言われています。創世記13章13節には、「ソドムの住民は邪悪で、主に対して多くの罪を犯していた。」と書いてあります。ソドムとゴモラの罪があまりにも大きかったので、神はこれらの町を滅ぼされることになります。
では、ソドムとゴモラの住民は、どのような罪を犯していたのでしょうか。ユダの手紙の表現によれば、それは「姦淫」「淫行」すなわち淫らな行いであり、不自然な性的欲求を満たすことでした。今日では、「不倫」とか「性暴力」という言葉がよく使われます。ユダの手紙の著者は、ソドムとゴモラのみだらな行いを、天使たちの罪になぞらえています。このことから、天使たちの犯した罪が「不倫」や「性加害」と呼ばれるような罪であったことがわかります。
以上、天使が犯した罪が何であったかを見てきました。次に、人類最初の人間が犯した罪が何であったかを見ていきたいと思います。
原理講論の著者はまず、創世記2章25節と3章7節を引用しています。
2章25節には次のように書いてあります。
人とその妻とは、ふたりとも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった。
ところが3章7節では、次のように書いてあります。
すると、ふたりの目が開け、自分たちの裸であることがわかったので、いちじくの葉をつづり合わせて、腰に巻いた。
アダムとエバは、罪を犯す前には、裸であることを恥ずかしいと思わなかったのですが、罪を犯した後で、裸であることを恥ずかしく思い、いちじくの葉で下腹部を隠しました。
このことについて、原理講論の著者は次のように述べています。
「もし、善悪の実というある果実があって、彼らがそれを取って食べて罪を犯したのだとすれば、恐らく彼らは手か口を隠したはずである。なぜかといえば、人間は恥ずかしい所を隠すのがその本性(ほんせい)だからである。しかし、彼らは、手や口を隠したのではなく、下部を隠したのである。したがって、この事実は彼らの下部が科(とが)となったために、それを恥ずかしく思ったということを表しているのである。ここから、我々は彼らが下部で罪を犯したという事実を推測することができるのである。」(p. 101)
このように述べて、著者は人間がみだらな性行為によって堕落したと結論づけています。私たちは、今日の不倫や、性加害と呼ばれる事件についての報道を通して、みだらな性行為が氾濫していることを知っています。このような性に関する不正行為の氾濫は、人間を不幸にする深刻な問題です。これらの不正行為は、家庭を崩壊させると同時に、子どもの健全な成長を妨げます。私たちは原理講論を通して、これらの問題について改めて学ぶことができます。次回は、この罪の問題が、いかに深く根を張っているかを考えてみたいと思います。
🟦 世界平和統一家庭連合『原理講論』光言社、1996年。