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生命の木とは何か/原理講論研究(17)

原理講論の第二章「堕落論」に入ります。堕落論の冒頭で、原理講論の著者は次のように述べています。

「人間はだれでも悪を退け、善に従おうとする本心の指向性をもっている。しかし、すべての人間は自分も知らずにある悪の力に駆られ、本心が願うところの善を捨てて、願わざる悪を行うようになるのである。このような悪の諸勢力の中で、人類の罪悪史は綿々と続いてきた。キリスト教ではこの悪の勢力の主体をサタンと呼ぶのである。そして、人間がこのサタンの勢力を精算できないのは、サタンが何であり、またそれがどうしてサタンとなったかという、その正体を知らないからである。」(p. 91)

このように述べて、著者はサタンの正体を知る必要があることを指摘しています。サタンの正体を知ることが、堕落論の大きな目的です。堕落論の最初で、著者は人間の中に深く根を下ろした罪の根が、いったい何であるかを明らかにしようとしています。この「罪の根」を理解するためにはまず、「生命の木」が何を意味するかを知らなくてはなりません。

堕落論の第一節「罪の根」の冒頭で、著者は次のように述べています。

「今まで人間の中に深く根を下ろし、休むことなく人間を罪悪の道に追い込んできた罪の根がいったい何であるか、この問題を知る者は一人もいなかった。ただキリスト教信徒のみが、聖書を根拠として、人間始祖アダムとエバが善悪を知る木の実を取って食べ、それが罪の根となったということを漠然と信じてきたのである。」(p. 92)

ここで原理講論の著者は、人類最初の人間であるアダムとエバが、善悪を知る木の実を取って食べたことが、人間を罪悪の道に追い込む罪の根となったというキリスト教徒の理解を取り上げています。

創世記2章8節と9節には、次のように書いてあります。

主なる神は、東の方のエデンに園を設け、自ら形づくった人をそこに置かれた。主なる神は、見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木を地に生えいでさせ、また園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生えいでさせられた。
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神はエデンの園の中央に、生命の木と善悪を知る木を生えさせられました。そして神は、善悪を知る木の実を取って食べないようにと、アダムにお命じになりました。

原理講論の著者は、これらの木について次のように指摘しています。

「多くのキリスト教信徒たちは今日に至るまで、アダムとエバが取って堕落したという善悪を知る木の実が、文字どおり何かの木の果実であると信じてきた。」(p. 92)

この指摘の通り、私自身も、善悪を知る木の実が、文字どおり何かの木の果実であると信じてきました。これらの木が何かの象徴であるという考えに到達することは、今までありませんでした。

原理講論の著者はまず、生命の木が何を象徴しているかを議論することから始めています。まず、生命の木について考察した後で、善悪を知る木についての考察に進んでいます。今回は、生命の木についての考察を見てみたいと思います。

聖書の中には、イエス誕生のずっと以前に、ユダヤ人によってヘブライ語で書かれた文書が収録されています。その中に、箴言という文書があります。この文書は格言集のようなものです。原理講論の著者は、この箴言の御言葉に注目しました。

箴言13章12節には、「かなえられた望みは命の木」という言葉があります。古代のユダヤ人にとって、生命の木は、イスラエル民族の願望の対象でした。イスラエル民族は、生命の木を待ち望んでいたのです。

次に原理講論の著者は、ヨハネの黙示録に注目しました。ヨハネの黙示録は、聖書の中の最後尾に置かれている文書です。ヨハネの黙示録22章14節には、次のような御言葉があります。

命の木に対する権利を与えられ、門を通って都に入れるように、自分の衣を洗い清める者は幸いである。
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ここでは、生命の木に対する権利を与えられた人の幸いが語られています。つまり、イエス以後、今日に至るまで、すべてのキリスト教徒の願望は、生命の木に至ろうとするところにあるのです。このように、ユダヤ人もキリスト教徒も、生命の木に到達することを願っているというのが、聖書の証言なのです。

創世記によると、神の命令に背いてしまったアダムは、生命の木に到達することができなくなってしまいました。創世記3章24節には次のように書いてあります。

こうしてアダムを追放し、命の木に至る道を守るために、エデンの園の東にケルビムと、きらめく剣の炎を置かれた。
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この御言葉によると、神は生命の木に至る道にケルビムと、きらめく剣の炎を置いて、アダムが通って来ることができないようにしておられます。堕落してしまった人間は、剣の炎に阻まれて、生命の木に到達することができないのです。

ではいったい、生命の木とは、何を意味しているのでしょうか。

原理講論は「生命の木とは、すなわち、創造理想を完成した男性である」と説明しています。「創造理想を完成した男性とは、すなわち、完成したアダムを意味するがゆえに、生命の木とは、すなわち、完成したアダムを比喩した言葉であるということを知ることができるのである。」(p. 95)

原罪のある堕落した人間は、自らの力では、完成した生命の木になることはできません。堕落した人間が生命の木となるためには、創造原理の理想を完成した一人の男性が、この地上に生命の木として来られて、すべての人を接木させて、ひとつになるようにしなければなりません。このような生命の木として来てくださった御方が、イエスであったのです。

続きは次回に話したいと思います。

🟦 世界平和統一家庭連合『原理講論』光言社、1996年。

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岩本龍弘
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