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聖霊降臨とエデンの園の関係とは/原理講論研究(18)

原理講論は、エデンの園のアダムとエバの物語と、イエスの死後に聖霊が降臨した出来事を結びつけています。いったい人類最初の人間の物語と、イエスの死後の聖霊降臨の出来事は、どのように関係づけられているのでしょうか。

改めて創世記2章9節を読んでみたいと思います。

主なる神は、見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木を地に生えいでさせ、また園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生えいでさせられた。

神はエデンの園の中央に生命の木と善悪を知る木を生えさせられました。原理講論によれば、この生命の木は、理想を完成した男性の象徴です。人類最初の人間であるアダムは、この生命の木に到達することを求められました。ところが、誘惑に負けて、神に背いてしまったアダムは、生命の木に到達することができなくなりました。

創世記3章23節から24節までの箇所には、次のように書いてあります。

主なる神は、彼をエデンの園から追い出し、彼に、自分がそこから取られた土を耕させることにされた。 こうしてアダムを追放し、命の木に至る道を守るために、エデンの園の東にケルビムと、きらめく剣の炎を置かれた。

神はアダムをエデンの園から追放されました。さらに神は、生命の木に至る道を守るために、ケルビムと剣の炎を置かれました。ケルビムとは、四つの翼を持つ天使であると言われています。このケルビムと剣の炎が、生命の木に至る道を守っていました。こうして、アダム以来、人間は理想を完成した男性である生命の木に到達することができなくなってしまいました。その結果として、生命の木は、創造の理想を回復しようとする人間の願望として、取り残されることになりました。それゆえ、堕落した人間が生命の木となるためには、創造の理想を完成した一人の男性が、この地上に生命の木として来られて、すべての人を御自身に接木してくださらなければなりませんでした。この生命の木として来られた方がイエスであったのです。

原理講論がアダムとイエスを関係づけていることは、必ずしも珍しいことではありません。聖書はヘブライ語で書かれた旧約の文書と、ギリシャ語で書かれた新約の文書によって構成されています。新約の中の多くの手紙を書いたパウロという人は、創世記のアダムと新約のイエスを結びつけています。コリントの信徒への手紙第一15章45節で、パウロは次のように述べています。

「最初の人アダムは命のある生き物となった」と書いてありますが、最後のアダムは命を与える霊となったのです。

ここでパウロはイエスのことを「最後のアダム」と呼んでいます。アダムが堕落して、生命の木を完成することができなかったので、最後のアダムであるイエスが生命の木として来られることになったのです。

原理講論が独創的で興味深いのは、イエスが生命の木として来られたことと、聖霊降臨を結びつけているところです。ギリシャ語で書かれた聖書の中に、使徒行伝、あるいは使徒言行録と呼ばれる文書があります。これは、イエスの弟子たちがイエスの死後、使徒と呼ばれるようになって、活動したことを伝える文書です。後に使徒として加えられたパウロの活動も、この文書に記録されています。この使徒言行録2章は、弟子たちに聖霊が降ったことを伝えています。この文書の2章1節から3節までの箇所には、次のように書いてあります。

五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、 突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。 そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。

この聖霊が降臨する出来事の中で、炎のような舌が現れたと記されています。つまり人間の口の中の舌のような形をした炎が、使徒たちに現れて、それから使徒たちに聖霊が降ったというのです。

原理講論の著者は聖霊降臨について次のように述べています。

「使徒行伝二章3節に記録されているように、五旬節の日に、聖徒たちの前をふさいでいた舌のごとき炎、すなわち火の剣が分かれて現れたのち、初めて聖霊が降臨し、全人類が生命の木であられるイエスの前に行き、彼に接がれるようになったのである。」(p. 96)

原理講論の著者は、この舌のような形をした炎のことを、エデンの園の生命の木に至る道を守る炎であると解釈しています。私はこのような解釈を今まで見たことも聴いたこともありませんでした。聖霊降臨の時に現れた炎と、エデンの園の生命の木に至る道を守る炎が同じであるという解釈は、極めて独創的な聖書の読み方であると思われます。この炎が現れて初めて、聖霊が使徒たちに降りました。その結果として、すべての人は、生命の木であられるイエスの前に出て、イエスに結び合わされるようになりました。

以上、前回と今回は、エデンの園の中央の生命の木が何を象徴するかを見てきました。原理講論が聖書全体を包み込む、一貫性のある独創的な解釈を提示していることがわかりました。次回は、エデンの園の中央にある善悪を知る木が何を象徴しているかを見ていきたいと思います。

🟦 世界平和統一家庭連合『原理講論』光言社、1996年。

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岩本龍弘
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