文学賞と同窓会
毎年応募している文学賞があって、夏頃〜秋頃に締切が来るのでその月が近づくと、そろそろ書きますかぁ......と頭を悩ませる。
応募1年生の時は、おれは作家になるぞ!みたいな意気込みは無くはなかったが、今はもう惰性で応募している。ただ、一度四次選考までいったこともあるので、多少の期待も込めている。なんというか、応募しないと気持ちが悪くて。歯磨きせずに寝てしまう、あの感じ。朝起きたら口内がすんごい不愉快な、あの感じ。それを避けるために、粛々と応募しつづけている。べ、別に熱い気持ちとか衝動とか、あんまり無いですからね。
大きな文学賞のいくつかは、1次選考を経るごとに本名やペンネームが雑誌等で公開される。毎年見るたびに、あ、この人まだ書いているんだな、みたいなことがあって、たいへん励みになる。ずっと三次とか四次選考で止まっている人がいて、きっと悔しいだろうな、なんて思う。いや、もう十年選手だと結果なんて見てないか。それでもみんなちゃんと歯磨きしてるなって。すばらしいなって。当選作以外は、タイトルと筆名、年齢、居住地ぐらいしかわからないから、内容は想像するしかない。みんな何を、いったいなぜ書いているんだろう。どうしても書かなきゃいられない人って、けっこういるんだろうな。
文学賞って、どこか同窓会みたいな感じがする。いや、みんなの顔は一切知らんけど。どっかの知らない誰かと、一緒に静かなお祭りに参加している。神輿系じゃなくて儀式系。粛々と。そんな感じ。
いちばん良い選考まで通ったことがあるのは、主人公は女で、山道で生き別れた父に会う話だったかな。あと、娘を持つ中年男性の悲哀みたいな小説も、大賞の一歩手前までいった。どちらも24歳ぐらいの時に書いた。なぜこんな埃っぽいものを、あの年で書いたのかはよくわからない。
もちろん女性として生きたことはないし、今のところ娘を持つ中年男性でもない。完全にフィクションとして書いたし、心の中でこんな人間はこの世に存在しません、と思いながら書いてた気がする。そんなものが選考にたびたび通る。
私小説を書いて応募したこともある。でも、1次選考さえ通らない。なんでやねん。
こうして、等身大の自分を書いた文章はあまり評価されないことに気付かされる。たぶん、等身大で書こうとすると、少しカッコつけるところがあると思う。それが見透かされているのかもしれない。あと主人公の内面を描きすぎて、景色の描写が消し飛んでるときあるな。悪い癖だ。
ここ数年は◯◯選考まで通ったな、とかどうでも良くなってきている。締切が無いと何もやらない人間なので、ここ1年で自分が感じたことを書くための締切として、勝手に文学賞に参加させていただいている。自分の書いた文章やメモ、撮った写真、映像を後々見るのは面白いから、勝手に締切代わりに賞とかコンテストとか参加させていただいている。
さーて、今年は何を書くかな。