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母を通じて思い出すことなど

もう6年も経つなんて、信じられない。母を送った日。その知らせは夜中に届き、駆けつけたが、もう息がないことは、分かっていた。いろいろあって、私ひとりが医師の最後の仕事に立ち合うこととなった。
 
教会に来てくれたことは、ある。だが、とても信仰をもっていたとは言えない。母が誰よりも好きだったのは、父親であったが、住職だった。母の実家は、だから寺である。年に二度ほど訪ねただろうか。山を越えるので、私はいつも車酔いをして峠でもどしていた。そこに通ったのは、祖父が亡くなるまでだから、私がまだ小学生の頃であった。
 
今では自分で車を走らせれば、そこに行くことができる。住職はもう知らない人なので、こっそり墓の掃除に行く。この墓を訪ねる人は、ほかには殆どいないだろう。親族関係も、年齢が増し、あるいは他界した。かなり遠方にお暮らしなので、墓参だけのために来ることは難しい。
 
母の中では、私がキリスト教会に行くようになったことは、必ずしも愉快なことではなかっただろう。だが、別段反対する理由もないので、普通に接してくれた。若いうちは元気そのものだったのだが、歳をとるとやはりあちこち悪いところが出てくる。ちょっとした入院もするようになったが、私が通えるような場所だったから、何かとそこへ行けた。
 
キリストの十字架が、痛かっただろうねぇ。見舞いに行った際、ふと、そんなことを母が漏らすことがあった。ああ、ちゃんと見てくれていたのだ、と私はうれしかった。
 
妻の父は福知山にいた。健康については人一倍気を使っていたが、からだの奥で蝕むものについては、対処の仕様がなかった。時は、コロナ禍の時期であった。妻は、ガラガラの新幹線で、連休ができると福岡から京都へ向かうことがあった。京都からは、特急で、また結構な時間がかかる。そのうち、始発に乗って、夜にはまた福岡に戻るといった、鉄砲玉の往復のような帰り方もするようにもなった。特急が動物にでも当たって止まれば、行けない・帰れないといったギリギリのスケジュールを考えて、祈りつつ乗った。何分かダイヤが遅れただけで、乗換えられないといった切符の取り方もしていた。
 
ありがたいことに、そのような支障は一度もなく、年に数度だけれど通うことができた。この日帰り計画は、義父が亡くなり、施設で暮らすようになった義母に会いに行くとき、とくに実行された。コロナ禍では、面会条件が厳しく、福岡から福知山へ行っても、ガラス越しに20分間、というような面会しかできなかったので、日帰りするしかなかったのだ。
 
私のように、行こうと思えば午前中を使えば病院を訪ねることができる、というようなものとは違った。いつも申し訳なく思っている。京都で暮らしていた頃は、福知山のほうが近かったのだが、福岡に来ることについては、妻も反対はしなかった。その覚悟だったのだろうとは思うが、決して心からの賛同ではなかったに違いない。
 
社交的な才のある妻は、福岡でも、よい人間関係をつくることができた。いまの看護師長としての立場に至るまでも、いろいろあったが、不思議とここまで導かれてきた。私も、京都で任されてきたYMCAの教室がたたまれるとき、それでは福岡で、という道を祈り探したが、今度はただの民間企業であったため、危機的情況にいきなり見舞われた。
 
会社に辞表を提出したが、受理されず、引き留められた。日曜日を基本的に休みにすることで、契約が交わされた。いろいろあったが、結局長くそこで働いている。スキルは上がったと言えようが、とんでもない失敗もする。よくぞこれでクビにならないものだ、と不思議がっている。
 
母は、そんな私に何かを期待していただろうか。晩年、認知的な問題も起こっていたので、最後はどうだか知れない。が、書き遺したものはある。自分の生い立ちや心情をノートに綴っていたのだ。私の京都の教会での結婚式のことだけは、資料のように書かれていたが、真情の吐露は特になかった。
 
形見に貰った立派な書のセット。とても使えるものではない。字の巧い母だった。その母に、習字だけは習うように通わされた。小学校の間だけであったが、週に一度、小学校の近くの家で習い続けた。行書から草書まで辿り着いたが、書の基本はそれなりに習ったと思う。
 
京都へは、当時は手紙という形で連絡が届いた。墨ではないが、達筆そのものだった。旧字体は当たり前で、時に変体仮名が使われていることもあった。母は短い期間だが、教師をしていたことがある。国語を教えていたと思う。言葉に対する私の関心は、そんな母から受けたものではないか、と思われる。いまでも、旧字体の本を読むのに、私は困ることはまずない。去年、唯一、これは何だ、と調べた文字はあったが、それくらいである。
 
私も、毎月会計報告をしていた。そもそも国立大学へ進学ができず、金銭的な理由と、理系から文系への転換という理由もあって、いまでは珍しいだろう「宅浪」という形をとった。多くの友だちも予備校通いだったから、退屈はしなかったが、ずいぶんとストイックな生活をしていた。そのこともあって、またもや国立大学に嫌われ、哲学の伝統ということで選んだ私立大学に通うこととなった。
 
当時としては、比較的学費の安いところを探したつもりだったが、なにしろ京都である。哲学を志すとなっては、憧れの地。なるべく安い、自炊のできるアパートを探した。自炊することで、食費をとにかく浮かす計画だった。牛乳や卵や食パンなどの価格は、いまと殆ど変わらないような当時の京都であったが、1日400円で暮らす目標を立て、細かく家計簿をつけた。その決算を、毎月手紙で親に報告していたのである。
 
学費は親に甘えたが、生活のほうは、アルバイトでまず家賃は完全にない扱いとなった。しばらくすると、アルバイトも増やし、大学院に行く頃には、奨学金と合わせると、かなりの収入となった。大学院の奨学金は、当時かなり出ていたのである。その奨学金はできるだけ取っておくようにして、後に家を買うときの大きな資金となった。もちろん、教職になる気がなかった私は、奨学金は返還しなければならなかったが、これも無理なく長年払い続けて、返すことができた。
 
帰省は年に二度か、多くて三度。夏休みの場合は、たくさんの本が必要だったので、手で持ち帰るのが難しくなり、宅配便を用いた。母と会えるのはうれしかったが、まだ当時は母も若かった。それでも、別れ際の私の眼差しがおかしかったのだろう。「死ぬることはないよ」と母は呟くように私に言ったことがあった。確かに、私の心の中では、これが最後かもしれない、という思いで別れるのが常だったのだ。
 
それは、いまでも会う人に対して、さほど変わらない。仕事に出て行く家族に対しても、そのような気持ちが伴うことがある。見送るにしても、こちらが出かけるにしても、いつも祈りが必要なのだ。
 
母の7回忌となる。来週、身近な人たちを集める会を開く。少々弱気になってきた父が、どうしても、と開く。そして、そのときまでに自分が倒れてはいけない、と気を張ってきた。福岡に住む次男夫婦も、東京に住む長男夫婦も、来てくれる。親戚で集まることなど、昔のようにはもうなくなった昨今において、この集まりは、ひとつの家族の物語を描くことになる。
 
それは、母が呼び集めたものなのだろう、と思う。

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