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信仰とは何か

『証し 日本のキリスト者』(最相葉月・KADOKAWA)に、多くの牧師や信仰者が気づき始めた。これはもっと読まれて然るべきだと思う。否、キリスト者は読まねばならない、と言った方がいい。
 
私は本をご紹介するとき、全部読み終わっていない本を取り上げることはない。だが今回、それをある意味で裏切ることをする。何しろ1000頁を超える本である。ちまちましか読まない私が読み終わるのはいつになるか分からない。そこで、本のご紹介ではなく、ここから教えられたことを述べるという形で、この本に関することをお伝えしたいと願っている。
 
著者最相(さいしょう)氏は、ノンフィクションのライター、と称すればよいだろうか。優れたノンフィクションを数多く世に送っているが、信仰を扱っているとは言えないし、信仰を特にお持ちだというわけでもない。むしろ、今回何かを示されたかのように、10年の構想と6年間の取材を経て、日本全国を渡り歩き、キリスト者から声を集めている。そのうち135人の「証し」がここに公開された。
 
著者は、心の問題を扱っている中でキリスト教につながりを与えられたり、優れたキリスト者と出会ったりした中で、「信仰」とは何か、という問題に没頭していくことになる。
 
牧師や司祭を含め、教会役員や一般信徒、幅広く取材を繰り返し、またジャンルとしても、救いの体験から社会問題など、様々な場面に対する、信仰者としての「証し」が並べられている。これだけの証言を集めるためには、ずいぶんと足を使い、頭を下げて、話をしてもらっていることだろう、と推察する。また、その取材したものの意義についての洞察も、これだけのノンフィクション・ライターとしての経験から、素人が思うよりずっとずっと深いものを有している。
 
何故この人々は「信仰」により生き方が変わったのか。日本人にこの「信仰」という考え方がないのは何故か。そうしてもっと一般的に、「神を信じて生きるとはどういうことか」、そのようなことを胸に、筆者は取材を続けていく。そして出版が近くなったところで、カルト宗教の問題で日本中が沸き返る。
 
ところが騒ぎは、政治や献金の話ばかりである。そもそも「信仰」とは何かという問題を深めようとする様子は、マスコミにも世間にも全くない。「神を信じるとは」という問いの必要を痛感するのだ、と筆者は語る。とにかく「信仰」について考えて戴きたい、という願いがその口から出てくるが、恐らくご自身にも問いかけているのではないかと思われる。
 
さて、このような真摯な姿勢で取材を重ねていくライターに対して、証言するキリスト者も、かなり腹を割った形で取材に応じている。まだわずかなところしか読んでいない私だが、そのことはよく伝わってくる。これは、KADOKAWAという出版社であることと、キリスト教信仰をもたない筆者であったが故であろう、と私は見ている。これだけのものは、キリスト教関係の出版社や記者からは、出てこないものであろう、ということを以て、私の観点をお伝えしたいと思う。
 
これがもし、キリスト教出版社からの取材であったらどうだろうか。恐らく、本音のところは喋らないと思う。「証しにならない」という言葉もあるくらい、神に栄光を帰す内容をこそ、取材者は求めているし、語る方も語らねばならないと意識しているはずである。中には、自分は悪の世界にいた、というような話も、それらにはある。だが、結局神様は素晴らしい、神の恵みに感謝、という結論になるストーリーにしかならない。そうでないことをいくらか喋っても、編集が美しく仕立てるのではないか。
 
このようなことを門外漢が言うと、そうではない、と当事者からクレームがくるだろうと思う。だが、キリスト者同士の取材と応答という場には、間違いなく一種の「社交辞令」があるはずである。「良い子」の期待に応えなければならないのだ。
 
そうして、キリスト教世界では名の通った「先生」が登場し、いうなれば小中学生の道徳の教科書のように、優等生的な理解を示すことになるだろう。その「先生」方に対しては、ありがたいという出版社のメンバーが気を使ってお言葉を戴き、関係を崩さないように配慮しながら、希望をもちましょうとか、キリストは生きていますとか、そうした方向性の中で、話が落ち着いていくのではないだろうか。
 
もちろん、中にはかなり思い切った意見や発言の「記事」を載せる方針の、キリスト教関係の出版物もある。むしろ悪ぶってアンチを示すことがカッコいいというような思惑が見え隠れする発言があるのも事実だ。だが、いま話題にしているのは、キリスト者個人の「証し」である。「信仰とは何か」という問いを探しながら、キリスト者の「証し」がぶつけられていくような場は、ないとは言わないが、少数であろう。もちろん、悪口を言い合えなどと言っているのではない。健全な信仰の提示は、やはり大切なことである。その「健全」とは、「良い子」という意味ではない。ひとは、神と様々な出会いをする。そのことが、本書からよく分かる。
 
一方「先生」方は、取り巻きに囲まれて、失礼なことを進言するような人は近づかず、執筆して戴く立場の出版社も、奥歯に物が挟まったような言葉で応対するという「関係」を保つばかりとなるだろう。まことに、人間関係は大切なのである。(言い訳じみていると思われるだろうが、敬服すべき方々、もはや頭を上げることもできないくらい、素晴らしいことを語り、実行している方々がたくさんいらっしゃる、そう思っていることは本当である。)
 
時折、犯罪として挙げられる牧師などが世間を賑わすことがある。それは残念なことだ、処分した、という発表はある。今後そのようなことのないように努めたい、といったコメントも、教団本部から出てくる。しかし、これでは一般企業で不祥事を個人が犯したときの風景と、何も変わらないのではないか。教団のあり方の、どこに問題があるのか、教団の掲げる「信仰」とは何であるのか、そうした問いかけを感じさせることはないように思う。挙句、悪魔は巧妙です、というように、悪魔の責任にしてしまうとなると、もはやそこには「世間体」というもののほかには、何もないのではないか、と勘ぐってしまうのだ。
 
「証し」とはいえ、それは教会員の前であるとか、キリスト者のほかには見ることもない出版物の中であるとかであれば、それなりに着飾ったものとならざるをえない。建前による「証し」が悪いなどと言っているのではないが、その虚像が、「キリスト者はこうあらねばならない」という圧力となっていることは、恐らく誰もが認めるのではないだろうか。クリスチャン家庭や、牧師家庭の子どもたちは、その圧力の前で、どれほど苦しんでいたか、そうした声も、ようやくいくらか出てくるようになったのは、よい変化であると私は考えている。
 
牧師家庭に育ったが、悪事に手を染めた。そうした証しも、本書にはある。現職の牧師であると、立場上大丈夫なのか、という心配が起こるかもしれない。これは、クリスチャン誌であったら、そこまで話したのかどうか、分からない。牧師の息子だって、犯罪に走ることもあるだろう。それをウリにするというのもどうかとは思うが、純粋に、その故に神と出会った、という「証し」であれば、それはひとつの真実である。私も窃盗や不正の経験があり、そこから許されたことは、洗礼を受ける前の大切な門であった。それは救いの証しでは必ず触れる内容である。偽りなき真実だからだ。だが、いざ自分が招聘されるかもしれないという場になると、そうした経験について口をつぐむ者がいるのもまた、事実だ。それを隠し続けていることは苦しいだろうとは思うが、苦しささえ覚えないとすれば、それはもう論外ではあるまいか。
 
本書については、これからまた読み進んでいくうちに、印象が変わっていくかもしれない。だからこれは、本書そのものの評でもないし、感想であるとも言えない。ただ言えるのは、これらの「証し」は、より真実に近い、ということだ。「近い」と言うのは、やはり誰にも、言えないことはあるし、それをオブラートに包んだようにして漏らしている、という程度のことは沢山あるだろうからだ。だが、それはいい。すべてをさらけ出せなどと言っているわけではないのだ。ただ、その点でも、筆者の問いかけを、私は真摯に受け止めたいと考えている。「信仰とは何か」という問いかけを。

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