目を覚まさなくてはならない
黙示録3:1-6
パトモス島に、恐らく流されていたヨハネは、七つの教会へメッセージを送るべく、神から黙示の言葉を受けていました。正確に言うと、「教会の天使」に書き送るよう命じられていたのでした。その第五弾として、サルディスにある教会宛の手紙に注目します。「生きているとは名ばかりで、実は死んでいる」というような厳しいメッセージでした。
教会なのだ、と活動していることを自称していても、それは名ばかりである。そういう指摘がここにあるのですが、それを現代の私たちは、他人事として見ていることはできません。しかもそのことに気づかないとなると、本当に「死んでいる」ことを証拠立てていることになります。だから「目を覚ませ」と手紙はぶつけてきます。
聖書にはよく「目を覚ましていなさい」という言葉が出てきます。イエスも弟子たちに何度かそう告げました。しかし、サルディスの教会へは「目を覚ませ」という強い言葉が向けられました。これは「復活する」という語ではありませんが、眠りから覚めよと起こしてくるその声は、死んだ者を復活させるほどの勢いを感じさせます。
「死に瀕している残りの生活を立て直せ」と言われるからには、人々の生活は、表向きは生きているかのように見せているのかもしれません。これまでのことを「思い起こして」「悔い改めよ」との叱責を、まだ右から左へ受け流している場合でしょうか。主は「盗人のように来る」との忠告も、これまで度々聖書から私たちは聞いてきました。
「私がいつあなたのもとに来るか、あなたには決して分からない」ということは、イエスもよく口にしていました。今さらながら、その警告の重さを覚えます。そう、これはもはやサルディスの教会だけの問題ではないのです。私たちの問題です。私たちが、この言葉を自分の問題として受け止めて、考えなければならないのです。
「しかし」と転換して、「僅かながら」見所のある者たちがいる、と言います。「白い衣」や「命の書」という慰めを、教会に与えます。そのような「勝利を得る者」は、ほんの一握りであるように見えます。「目を覚ませ」は、眠りこけている者のための言葉です。私たちは眠っています。この厳しい言葉は、私たちへの喫緊の命令であったのです。