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狭い門について省みる

マタイ7:13-14 
 
「目から鱗が落ちる」は、まだよい方です。でも「狭き門」という、人口に膾炙した言葉は、本来と正反対の意味で世間で使われています。浄土真宗が「他力本願」という言葉の正反対の利用を止めるよう、2002年にO社に抗議文を提出したことで、いまは公的には、その誤った使い方は禁じられるよう動いています。これはよいことでしょう。
 
同様のことがキリスト教にもできるはずだと思うのですが、誰も「狭き門」という言葉について訴えることはしないようです。せいぜい、礼拝説教の場で、世間では違う意味で使われていますが、と、どこか冷笑するように語られることがあるくらいですが、その姿勢の中に、私はずいぶんと気味の悪いものを感じるのです。ご理解戴けるでしようか。
 
人が押し寄せるのが広い門であり、見いだす者が少ないのが狭い門です。写本によっては「なんと狭く、その道も細いことか」と言われているのが、「命に通じる門」です。キリスト者は、自分はその少数者である、という前提から考えたくなる癖をもっています。日本では、キリスト者という存在は珍しい少数者である、というのは本当です。
 
そのため、「見いだす者は少ない」と聖書にあるのを見ると、自分はその少ない方であり、「見いだす者」なのだと思いこみ、安心するのです。世の殆どの人は知らないが、自分は命にいたる門に入っているのだ、と。それでは、キリスト者が大多数という建前であったヨーロッパ社会は、当時、キリスト者が少数者であったことになるのでしょうか。
 
イエスの口から出た「少ない」とは、そういう程度の意味だったのでしょうか。「滅びに至る門」「から入る物は多い」とイエスが言っていても、信じなかったのでしょうか。それとも、世界的に見れば、神の教えを知らない人間が多いのだから、偶々ヨーロッパにはその「少ない」人間が集まっているだけだ、とでも見なしたのでしょうか。
 
いま全世界の3分の1の人がキリスト者だと言われますが、それさえ「少ない」のでしょうか。イエス・キリストを信じる、と告白するならば、狭い門に入ったことになる、という点を、思い直す必要がありそうです。「広い道」とは何でしょう。人の目に見て「そうだ」と頷き合って安心している、多数の流れを疑ってみる必要がないでしょうか。

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