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二千年の重み (使徒18:7-8, ヨハネ6:53-58)

◆プロテスタントの礼典

信仰の心というよりは、儀式とでもいう方にも、少しは関心をもつべきだと考えました。プロテスタント信仰がベースになっていますので、そちらの角度からお話しします。
 
儀式という言い方は、より一般的なものです。プロテスタント教会では、適切には「礼典」と言います。ラテン語では「サクラメントゥム」といい、英語で「サクラメント」と称しています。元々軍隊の「服従の誓い」を意味する言葉だったそうですが、その言葉を教会は、神からの恵みを見える形で表したものを示すために用いました。
 
カトリック教会から16世紀に、プロテスタントと呼ばれる教会が分かれました。ほかにも、11世紀に分かれた東方教会というものも大きな勢力でしたし、同じ16世紀に、ルターの宗教改革から間もなく、イギリスもカトリックから離れ、聖公会の流れが始まりました。今日「礼典」と呼んでいるのは基本的にプロテスタントです。カトリック教会では「秘跡」と呼び、東方正教会では「機密」(ミュステリオン)と称するそうです。聖公会では「聖奠(てん)」と呼ぶそうですが、どうぞ詳しいことはお調べになってください。
 
いまはプロテスタントの考えに従いますので、カトリックから分かれてのことに触れることにします。カトリックでは「サクラメント」は七つあります。洗礼・堅信・聖体・ゆるし・病者の塗油・叙階・結婚のどれもが、教会独特の一種の「奥義」と考えられました。ルターはその宗教改革のスローガンで「聖書のみ」を信仰の基としましたから、聖書にそう書いてあるかどうか、を基準としたため、この七つのうち二つだけを残しました。洗礼と聖餐です。聖餐は、カトリック教会が聖体と称していたものです。これについては、古来議論が絶えず、教会の分裂や争いにも展開しましたが、いまここでそれを講義するようなことは致しません。
 
結論として、プロテスタント教会では、聖書に明確に記されているから、という理由で、洗礼と聖餐を、教会のために必要であるとしました。イエスが洗礼を施したということよりも、洗礼者ヨハネの影響が大きいかもしれません。聖餐は、イエスがすべての福音書の中で触れており、パウロの手紙の中にも書かれています。信徒が共に食べるという交わりの土台として、私たちがキリストの肉を食べ、その血を受けるという信仰的な理由が第一だろうと思われます。
 
カトリック教会は、「聖書のみ」という言い方はしません。教会の歴史と伝統を重んじます。言うなればポリシーの相違、きちんと言うなら信仰の原則に立って、プロテスタント教会は、教会の言い伝えを切って、聖書に記されている洗礼と聖餐に儀式を絞った、ということになるでしょうか。
 
来週から、この二つの礼典について、一つずつ深めていく機会をもちたいと考えています。今日は、これら二つをまとめた形で取り上げ、その重みを受け止めてみたいと思います。
 

◆パウロ、異邦人世界へ向かう

使徒言行録は、復活のイエスからバトンを渡された弟子たちの、初めの頃の歩みです。途中からパウロが主役になります。パウロは、直接イエスと会ったことはありません。最初パウロは、ユダヤ教を将来背負って立つようなエリートとして教育を受けてきました。そして、イエスの弟子たちを縛り上げていました。ところが復活のイエスと、幻の中ででしょうか、劇的な出会い方をします。初めは半信半疑だった十二使徒たちでしたが、次第にパウロを認めざるを得なくなっていきます。パウロはエルサレム教会から派遣されて、地方を巡ります。献金援助の目的でパシリをさせられていたのではないか、とも考えられています。
 
パウロはギリシアまで来ました。アテネは哲学の町です。詳しくはいま述べませんが、そこで屈辱を味わいました。パウロの熱弁が、思索を日常とする市民たちから、完全に馬鹿にされたのです。パウロは傷心の思いでアテネを出て、コリントに来ました。コリントは大きな町です。この港町は、活気に溢れていました。経済的にも潤っています。ここにいたユダヤ人たちの中には、パウロから聞いてかそれ以前からか、キリストを信じる人々がいました。パウロはそこに集まるところ、即ち教会を築くことになります。
 
使徒言行録18章の初めから見ると、ここでユダヤ人アキラと妻プリスキラに出会っています。この夫婦は謎の存在です。ローマからコリントに移り住んだようですが、キリストをどこで信じたのかよく分かりませんが、熱心な信徒で、パウロなど伝道者を実によく助けます。テント張りを生業としていたらしいのですが、パウロはここで、自分もテント張りのような仕事をしていた、と漏らしています。この辺り、パウロを知るためにも、貴重な場面だと思われます。
 
夫婦はパウロを家に呼び住まわせ、安息日ごとに会堂に出かけました。パウロは会堂で、議論をふっかけていたようです。ユダヤ人はもちろん、ギリシア人にも、イエスがキリストであることをなんとか信じさせようと努めています。否、その語り口調については全く分かりません。ただ自分の証しをしていただけなのか、聖書を取り出して、聖書にあるこのメシアが実はイエスという方として世に現れたのだよ、と熱く語っていたのか、分かりません。でも恐らく後者に近いだろうと思われます。
 
それにしても、こんな話し方をする人が現在いたとしたら、どうでしょうか。絶対に怪しい奴だと思いますよね。そんな馬鹿なことがあるか、証拠はあるのか、と言ってやりたい気がします。つまり当時も、パウロはそのような扱いを受けたに違いありません。
 
ユダヤ人たちは、パウロに反抗し、口汚く罵っています。パウロはここで、キレました。「おまえらなんか、どうなったって知らないからな。オレには関係がない。オレはもう、外国人のところに行ってやる!」という口調だったかどうか知りませんが、多分そんなところなのでしょう。
 
パウロは勝手に頭にきただけかもしれません。しかし、これは神の計らいであった、と使徒言行録の筆者は言いたげです。このようにして、福音がユダヤの領域だけではなく、全世界へ拡大するきっかけができたのですから。これをキリスト教の世界では「摂理」と呼びます。神の不思議な定めであり、人間が決めてできることではないということです。キリスト教が世界宗教となった、その始まりなのでした。
 

◆洗礼

7:パウロはそこを去り、神を崇めるティティオ・ユストと言う人の家に移った。彼の家は会堂の隣にあった。
 
比較的細かく情報が載せられています。このときすでに、シラスとテモテと合流しており、「パウロは御言葉を語ることに専念」したと言いますから、すでにアキラとプリスキラの家にはいなかったのかもしれません。ティティオ・ユストという人のところに厄介になっています。名前からして、また「神を崇める」という言い回しからして、この人はユダヤ人ではなく、異邦人である可能性が高いと思われます。
 
その家は、会堂の隣りでした。これも摂理かもしれません。会堂長をしていたといいます。会堂長というのは、制度的にはどうだかよく知りませんが、教会の代表役員のようなものでしょうか。牧師というのではないのですが、教会堂の責任者です。
 
パウロはとにかく出会う人に次々とイエスのことを話したでしょうから、この会堂長クリスポにも、当然話したことでしょう。するとどうしたことか、不思議なことが起こります。
 
8:会堂長のクリスポは、一家を挙げて主を信じるようになった。また、コリントの多くの人も、パウロの言葉を聞いて信じ、洗礼を受けた。
 
このクリスポ、イエスをキリストだと信じたようです。そこで、クリスポ一家も全員が、同じように信じることとなりました。
 
コリントの多くの人も信じた、とありますけれども、話半分で聞いていてもよいかもしれません。但し、コリントには教会ができることを考えると、それなりにパウロの説得は通じたのかもしれません。
 
やがてパウロはシリアへ向けて、戻るような動きをとります。そのとき、プリスキラとアキラも同行しています。そして船が着いたエフェソで夫婦は留まったようです。それにしても、聖書は面白いもので、先ほど2節ではアキラを先に挙げ、妻のプリスキラが次だったのに、この後18節と26節では、「プリスキラとアキラ」の順になっています。
 
少し待って下さい。戻りましょう。
 
8:会堂長のクリスポは、一家を挙げて主を信じるようになった。また、コリントの多くの人も、パウロの言葉を聞いて信じ、洗礼を受けた。
 
一家の主人が信仰をもったら、その家の者が全員主を信じたのです。洗礼も受けた可能性が高いと思います。先にフィリピで、パウロとシラスが入れられていた牢が地震で壊れ、囚人を逃がした責任で死のうとした看守を、助けたことがありました。よく知られる、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」(16:31)の言葉のある箇所です。すると看守だけでなく、その家族も主イエスを信じたのでした。あのときと同じです。
 
いったい、信仰というのは、もっと個人的なものではなかったのでしょうか。
 

◆当時と現代

いまでこそ、「イエス・キリストを個人的な救い主として受け容れますか」というような言葉が、信仰の確認のために投げかけられます。確かにそれは昔からそうだったのかもしれませんが、いまは恐らく個人の信仰を深く問うているはずです。しかしこのクリスポやフィリピの看守のときのように、家族がすんなり皆信仰の鞍替えをするということは、どういうことなのでしょうか。現代の私たちの目から見ると、不思議に見えます。
 
一家の長が、今日から我が家では◯◯教を信仰することにした。その一言で、家の仕組みががらりと変わる。そういうことは、家長制度の下ではあり得たかもしれません。よく聞くのは、キリシタン大名の話です。九州にはキリシタン大名が何人も現れました。
 
いまは無き「葦書房」という、福岡地元の有限会社の出版社が、まだ中央区にあった頃、『九州キリシタン新風土記』という分厚い本を出版しています。教育畑の濱名志松という方が、キリシタン文化を丁寧に調査してまとめたもので、福岡にサビエルが来た話や、黒田官兵衛と高山右近の関係なども詳細に語られています。城下町としては、殿様が信仰すれば、庶民もそれを受け容れていくというのは当然だったかもしれません。特にその高山右近という人は、関西は摂津の大名でしたが、その信仰の篤さから、カトリック教会では、聖人に次ぐ福者に認定されています。
 
そういう意味でも、特に西洋の歴史において、キリスト教が世の中のすべてであったような時代においては、領民全部がキリスト教信徒であったのはごく当然のことであり、それは信仰というよりは習俗のような役割を果たしていた、とも考えられるものであろうと推測されます。個人的に神を信じる、というのは稀なことではなかったのでしょうか。だからこそ、極めて個人的な色彩の濃い「聖人」と呼ばれるに値する人物が、特別に記録されているのかもしれません。
 
近代の思想と生活が当然の世界に生まれ落ちた私たちは、この数百年に於ける特別な情況の中にいます。しかし私たちの常識は、中世以前の非常識にあたることが、考えてみれば当然のこととなるでしょう。まして聖書のように、時代もですが文化も異なる場での記録を、いまここで私たちが受け止めるとき、どのように引き受けてゆけばよいか、悩ましいものがあります。
 
私たちがいま思い描く文字の意味が、書かれた時の意味と同じだという保証は、どこにもありません。当時の人々は、私たちの思いもよらぬ理解の仕方を、当然のようにしていたに違いないのです。それを、これこそが聖書の信仰なのだ、と勝手に「信仰」しているというのは、愚かなことであるような気がします。
 
教会は使徒言行録のようでありたい。そういう理想が、悪かろうはずがありません。原始キリスト教会と呼び、そこに書かれてある姿に憧れるのは結構なことです。原始共産制がよい、と考える人もいます。いまの時代からはさすがに余りにかけ離れていますから、そこまでは、というのが大半のクリスチャンでしょうが、いろいろトラブルに見舞われながらも、問題を乗り越え、生き生きと信仰生活を営み、伝道の働きに邁進していた当時の教会について知ると、励まされもします。
 
ルカと目されるその使徒言行録の筆者も、かなり理想化して描いている、と言われています。ただ、理想化していようがいまいが、その様子を見る私たちの目は、相当に色眼鏡を通して見ているわけですから、当時のことが本当にそのまま見えているというわけにはゆかないでしょう。
 
さらに、訳語の問題もあります。新約聖書はギリシア語ですが、その事情はさておき、それが何百かの言語に訳されているのは確かです。訳した先の言葉の有する文化や歴史においては、直訳したとしても別のイメージを伝えてしまう場合があります。
 
その点、イスラム教は徹底しています。アラビア語のみが聖典だとしているため、信仰している文書としては、一つの言語しかないのです。別の文化を有する言語に変換することが許されていないわけです。翻訳したものは、聖典ではなく、「解説書」程度にしか扱われないのです。それに比べると、キリスト教は非常に緩く伝えられていったものだと驚きます。多少ニュアンスの異なる翻訳であっても、それを「聖書」として認めるとしたのです。厳格な概念の伝達よりも、それぞれの人が生まれ落ちた環境で、神の言葉を聞くことができるように、と考えられたことになります。
 
パウロは、この場面で、「異邦人のところに行く」と宣言したことは、別の文化に、別の言葉で伝えられてゆくキリスト教の運命を決定したのかもしれません。
 

◆聖餐

話を戻します。「洗礼」と並んで、プロテスタントが遺したもうひとつのミステリーは、「聖餐」です。教会の礼拝の中でも「聖餐」が行われます。コロナ禍においては感染を防ぐ目的で、それまでとは形態を変え、接触なしのスタイルで聖餐を行った教会も、少なからずありました。聖餐については、パウロの有名な件があります。教会の聖餐の場面でもよく読み上げられるところですが、それは「聖餐」のみを取り上げる回でお読みしましょう。
 
ここでは、儀式としての聖餐というよりは、イエス自身がその意義を大胆な形で言っている場面を取り上げることにします。ヨハネによる福音書です。これは、ヨハネと称される筆者が、かなり独自の資料と世界観から綴った福音書で、他の三つの福音書とは大幅に与える印象が異なります。従って、この聖餐の意義を語るイエスも、恰もヨハネが非常に不思議な語りをイエスにさせているかのようにさえ見えます。それは、多くの人が躓いてイエスの許を去ったという、曰く付きの場面です。イエスは、過激なことを言い放ったのでした。
 
53:よくよく言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたがたの内に命はない。
 
のっけから、これです。しかも冒頭で「アメーン、アメーン」(元々の発音はこれに近い)と、深い真理をこれから言うぞという信号を送りながら、ヨハネがこれを綴りました。何をやらかすつもりなのか、と聞いた人々は、耳を疑ったかもしれません。ヨハネも思い切ったことを書いたものです。しかしこれではカニバリズム(食人)です。呪術的な意味合いがあるのか、深い宗教的な思いがあるのか分かりませんが、人肉を食すというのは、古来知られていたものと思われます。ショックを受けたユダヤ人や弟子たちを前にして、イエスはさらに続けます。
 
54:私の肉を食べ、私の血を飲む者は、永遠の命を得、私はその人を終わりの日に復活させる。
55:私の肉はまことの食べ物、私の血はまことの飲み物だからである。
56:私の肉を食べ、私の血を飲む者は、私の内にとどまり、私もまたその人の内にとどまる。
 
さすがにこれはアウトでしょう。イエスの肉を食べ、イエスの血を飲めば、永遠の命を与えられるといい、それはイエスの内にとどまることであり、しかもイエスもまたその人の内にとどまるのだ、というのです。
 
けれども、もちろんこれは福音書です。猟奇的な物語を集めた本ではありません。福音書は、興味本位にイエスの生涯を記録したものでもありません。これを読む者が、イエスと出会うことを願っているはずです。イエスとこの福音書において出会い、イエスを信じるように導くための本であるのだと思います。ですからそこには、いろいろな仕掛けがあります。読者の注意を喚起し、聖書の世界に誘い込むような言葉や言い回しが多々あります。
 
ヨハネはイエスに語られます。「あなたは私を信じるか」、このイエスの言葉を信じる者には永遠の命を与える。そのリアルな物語を、他の真似や改訂版ではない「福音書」によって、教会の人々にぶつけました。
 
それにしても、イエスを食べる者がイエスによって生きる、とは只ならぬ言葉です。これを信じろというのは、そのままでは無理です。しかし、これが、「聖餐」が含みもつ意味を、センセーショナル二ではありますが、言い切っているように思われます。よくよく見れば、「聖餐」のエッセンスを、まことにストレートに述べていると、信徒ならば分かるのです。
 
キリスト教自体、この点で非常に気味悪がられた歴史があるそうです。あの連中は人の肉を食べて血を飲んでいるらしい。それが、迫害する側の正義感を高めたとも言えるようです。ご尤もです。ただ、これはいまの私たちにも届く、深い意義があるのも確かです。
 

◆儀式

洗礼と聖餐は、確かに「儀式」です。教会もひとつの組織として、教えの許にひとつになるための「儀式」を要しました。それにより、人の心が引きつけられるということもありえたでしょうし、とにかく人間の集まりには、一定の「儀式」が求められます。
 
いまもなお、プロテスタント教会では、これら二つの儀式を必要としています。守って行います。洗礼は、仲間に加わるための儀式です。聖餐は、プロテスタントでは概ね毎週ということではないようです。カトリックの聖体拝領は毎週のはずですが、プロテスタントでは、月に一度というのがいいペースでしょうか。教会によっては、年に三度くらいしかないところもあります。本来毎週すべきだ、という意見の方もいますが、そもそもプロテスタント教会の始まりの辺りから、そうであったとも聞きます。さらに現代に近づくと、いっそう全体的に簡素化しているようにも見えます。
 
現代では、こうした儀式が疎んじられている世相もあります。宗教組織に加わるのを嫌う人々が増えています。それでいて、霊的なことや精神世界に関心がないわけではないのです。スピリチュアリティの世界は繁盛しています。特定の教義を掲げる宗教は危ないと見られているし、たとえ信じても組織の一員になるということに、抵抗を覚える世相なのです。分からないでもありません。
 
「儀式」とは何でしょうか。「通過儀礼」という言葉はよく聞きます。人生の節目に一区切りつけるための儀礼のことですが、世界各地でよく見られる「成人儀礼」には、興味深いものがあります。「成人式」のニュースで、日本でもハチャメチャな若者が、どうかすると興味本位で報道されますが、バンジージャンプが分かりやすいと思いますが、大人になるために危険な目に遭うことを義務とする地域もあるようです。
 
学校の卒業式も、海外では日本ほど儀礼ばったものでないことがあると聞きます。あるいは祝賀会のような愉しみである、という話もあるようです。日本でも、学習塾には卒業式がありませんから、そのうち小中学校でも変化が出るかもしれません。尤も、親がどうしてもそういう式を望む、というふうではあるでしょうけれども。
 
日本人は、比較的儀式が好きなようです。みんな整然と並んで、揃って頭を下げる。ひとつの快感かもしれません。そんなのはナンセンスだ、とアナーキーをよしとするタイプの人もいるし、クリスチャンの中にも近ごろ目立ち始めました。しかし、その人が教会の礼拝でハチャメチャに振舞ったという話は聞きません。たとえ奇抜な説教題を掲げたとしても、儀式そのものを破壊はしていないと思います。
 
軽犯罪法第1条は「拘留又は科料に処する」とし、その条項の24に、「公私の儀式に対して悪戯などでこれを妨害した者」というのが挙げられています。軽微ではあるわけですが、犯罪は犯罪です。地鎮祭でも靖国神社の例大祭でも、儀式をぶち壊しにすることを、社会が認めてよいわけがありません。旧約聖書のギデオンのように、近所にある異教の祭壇や神の像を破壊することを勝手にやるのは、いくら信仰深い故だとは言っても、してはいけないことになっています。
 

◆伝統の重み

洗礼はイエス自身も受けたし、イエスが聖餐を授けた記事も福音書にあります。パウロも洗礼を受けています(使徒9:18)し、手紙の中で聖餐のための言葉を遺しています。福音書という形でイエスのことが伝わり、パウロを通してそれが異邦人世界へも拡大する糸口が与えられました。
 
これらの儀式は、要するに福音の伝播と共に実行されていったに違いありません。福音宣教があってこその、儀式です。私たちは、このことを忘れてはいけません。ただ儀式が行われればいい、というわけにはゆかないのです。柏手を何回打つとか、頭を何回下げるとか、そうした形を守ることが無意味だとは思いませんが、何故そうするのか、何も分からないままに儀式を行うということを、キリスト教文化はよしとはしませんでした。
 
イエスが、パウロが、その意義を語っています。説明しています。これは神の言葉だ、という宣言の中で、これらの儀式が定められています。プロテスタントがいう「礼典」は、こうしてこの500年の間、伝えられてきました。それはまた、そもそもカトリック教会において、二千年間、伝えられてきたということでもあります。
 
実に教会では、二千年にわたり、これが伝えられ、儀式としても守られてきました。ここに注目したいと思います。日曜日毎に集まるということ、そのとき洗礼が尊ばれ、聖餐が行われ続けたということは、驚くべきことです。何故でしょうか。そこに、神の恵みを受けた証しがあったはずです。神の言葉が同時に、その場の人々に届けられていたのです。
 
もちろん、洗礼を受けなければ救われない、という考え方をする人も、歴史的には少なからずいました。それでも、聖餐を受けなければ滅びるという極論は戴けません。他方、聖餐なんかいらない、とする考え方もあってよかったはずなのですが、それもまともには扱われませんでした。教会は、地道にこれらの儀式を守り通してきたのです。
 
いまの時代の私たちは、これまでとはずいぶんと違った世界の中にいるい言えるのかもしれません。しかし、聖書の記されているあの原始教会たちと、こうして時を超えてつながっていることを感じます。二千年間の重みというものが、いまの洗礼の喜びの中に、聖餐でしみじみと主イエスを思う時の中に、ひしひしと感じられます。伝統の重みというものは、むやみに否定してよいものではありません。イエスの言葉、パウロの生き様、それがいまもなお、ここに生きています。
 
そのことを確認することで、同じ神が、同じイエスが、いまここで自分と出会っているのだ、という実感をもつことが許されています。この経験は、十分あってよいのではないでしょうか。
 
神の業の重みはもちろんですが、人の世界で二千年間降り積もった重みが、そこにあります。

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