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生きること (フィリピ1:20-21, ローマ8:37-39)

◆パウロの拘束状態

私にとって、生きることはキリストであり、死ぬことは益なのです。(フィリピ1:21)
 
突如このような言葉をぶつけられたら、ひとは引いてしまうかもしれません。もうお帰りの準備をされる方が現れないかと心配です。でも、本日は、パウロのこの言葉を受け止めていけたら、と願っています。
 
歴史的には、研究者の多大な苦労があり、これはどうやら本当にパウロが書いたものであろうと疑われず、しかもパウロはそのとき、牢に入れられていたのではないか、と考えられています。少なくとも、軟禁状態にはあったと言われています。つまり、いまにも刑が執行されるかもしれないという不安と恐怖の日々のただ中にあった、と考えられている、ということです。
 
一刻一刻が、生きるか死ぬかという瀬戸際にあったわけです。その中で、「生きること」と「死ぬこと」とが、いわば交互に迫ってくる、そんな状態だったことになります。
 
フィリピに住む信徒たちへ向けて書かれた、という手紙です。そこはローマ帝国の植民地のひとつですが、パウロは海外宣教に出向き、アジアなどでいくつかの教会を設けた上、ヨーロッパ地域でも福音を伝えることに成功した、そのたぶん最初の教会ではないか、と考える人もいます。
 
では、この手紙を書いたのはどこか。手紙の中にある描写から、何かしら捕まっており、不自由な環境であったと推測されています。が、確実にここで書いたという場所は確定していない模様です。内容の理解のためには、絶対に必要であるとは言えないようにも思われます。ともかくパウロが自由な状態ではなかった、それを前提に読んでいきましょう。
 
パウロは捕らえられています。どうしてだか分かりません。ユダヤ人たちの妬みや憎しみを買っていたことは確実です。使徒言行録の中にも、ユダヤ人たちから命を狙われる様子が幾度も描かれています。かつてはユダヤ教のエリートだった者が、コロッと寝返ったのです。そしてユダヤ教を攻撃しています。これは嫌われます。命を狙われます。現代でも、宗教的に熱心であればそれだけ、裏切りに対しては報復が厳しいものです。
 
パウロの側でも、自分が捕らえられていることに、疑問はなかったでしょうか。いまなら私たちは時折気にします。「神を信じているのに、どうしてこんな目に遭うのだろう」と。あるいは、神がいるなら、どうしてこんなに悲惨な事故や災難があるのか。自分に対してでもそうですし、大きな災害や戦争が、神がいるならどうして起こるのか、人が不幸になるのは何故か、という問いは、一般のみならず、クリスチャンの中にも多々生まれます。
 
けれども、パウロは、そうは考えません。それは自分にとっても、世の中にとっても、良いことだったのだ、と言いたいのです。
 

◆よかったさがし

人間的には、決して優しくないわけではないのです。でも私たちは時折、大失敗をしてしまいます。不運な事故に見舞われた人に対して、「それでも運が良かったのよ」と声をかける。「あなたより不幸な人はたくさんいるわ」などとも口を突いて出ますが、それは自分では、慰めているつもりなのです。
 
子どもを喪った母親に対して、「ほかにも子が何人もいてよかったね」と声をかけた、などという、信じられないような話も、聞いたことがあります。傍から見れば、なんて酷い、と思うかもしれませんが、その場にいて、何か声をかけなければ、と焦ったとき、そんな言葉が零れてくることは、あり得ることだと思うのです。
 
さらに困ったことに、言った本人が、言った後でも、それが親切のつもりだと信じて止まないことすらあるとすれば、事態は少しも改善されません。いまやSNSで簡単に自分の意見が世界に向けて公表される時代です。思いつきの発言が公開され、誰の目にも触れるとなれば、その刃のような言葉を向けられた本人はもちろんのこと、また別の不特定多数人の心にも、言葉が深く突き刺さるということが、きっとたくさんあるでしょう。
 
確かに、不幸の中で、「よかった」と思われる面を見つけることは、精神衛生上、適切な場合があります。しかしそれは、不幸の当事者が自ら見出すべきことであって、他者が、特に痛みを覚えるわけではない傍観者が、「よかったね」と慰めるようなものであってはならないのです。
 
アニメでは「ポリアンナ」と呼ばれた「少女バレアナ」は、原作で「喜びのゲーム」のように訳されていたものがありました。アニメの「ポリアンナ物語」では、「よかったさがし」と称されて、世に知られるようになりました。牧師の父をも喪って孤独になった少女ポリアンナは、父の教えであった、「どんなときにも『よかった』と言えるようなことを探しなさい」を胸に、逞しく生きていきます。
 
でもやはり、それは自分から見出していくものだったのです。さらに、ポリアンナはそれが行き過ぎて戒めを受けます。自分はあのような不幸な人とは違って「よかった」と思う、それは使い方が間違っている、と教えられるのです。
 
「よかったさがし」は、本人が自ら、本人の中でするゲームとしては、優れていると思います。しかし、他人が誰かのためにしてやるようなものではありません。聖書を知る者は、誰かと共に喜ぶことも教えられていますが、共に泣くことも勧められています。共に泣く、それは難しいことですが、心に留めておきたい課題だと言えるでしょう。
 

◆パウロの懸念はむしろ

キリスト教を信ずる者が、不幸な目に遭うことも、ままあります。信じたために悪いことが起こる、というように見えることがあるかもしれません。日本人ならばすぐに「祟り」だとか「因縁」だとか言って、気味悪がると共に、何かしらの原因を特定したがる傾向があります。新興宗教は、実にその点を鋭く突いてきます。墓を粗末にしたから不幸が続く、などというように、良心の呵責を責めてくるというのも、常套手段です。これを組織的にやる宗教集団は、手を替え名を替え、様々な形でひとの不幸に寄り集まってきます。
 
一体、パウロの脳裏にも、そのようなことが掠めなかったものか。私は分かりません。イエスを信じて喜んでいるというあのパウロが、志半ばでこうして捕まったのです。密かな暗殺も怖いものですが、正義の名のもとに権力によって死刑とされるのは、名誉の思いからしても、苦しいものがあるでしょう。パウロとて、さじかし怯えていたに違いない、と私は想像します。信仰してもろくな目に遭わない、と嘆くことがあったとしても、私はパウロを見下すつもりはありません。
 
でもまた、さすがパウロであるが故に、信仰により立っていた、というふうに聞かされても、それでももちろんよいと思います。
 
他方、パウロが心配したのは、そういう自分の身の上のことばかりであった、と制限するのも何か違うような気がします。パウロは、教会の仲間たちのことを考えていたのではないか、と思うのです。
 
つまり、パウロ自身は、自分の信仰で思うところがある、しかし教会の人々が、パウロが捕まったことで、いわば信仰に躓くのではないか、と案じたような気がするのです。あれほど福音に生きていたパウロが、あっさりと捕まってしまった。そうだ、イエスさまもそうだった。所詮、信じてもいいことはないんだ。そんなふうに思う仲間が現れないとも限りません。パウロにとっては、自分がどうなるかということについては覚悟ができていたかもしれませんが、こうしてせっかく信仰を与えられた人々が、神の福音から離れていくということは、自分が死ぬことよりも、もっと辛かったのではないかとおもうのです。
 
12:きょうだいたち、私の身に起こったことが、かえって福音の前進につながったことを、知っていただきたい。
 
これは、悪いことではなかったのだ。むしろ「よかった」と言える時がくるのだ、と弁明したいような叫びを、私はここに感じてなりません。
 

◆信頼と喜び

神は悪いようにはなさらない。神の導きは、すべてが信頼できる。パウロはなんとか、それを伝えようと思っていたのではないでしょうか。ローマの信徒への手紙において、そうした点でよく知られる言葉があります。
 
神を愛する者たち、つまり、ご計画に従って召された者のためには、万事が共に働いて益となるということを、私たちは知っています。(ローマ8:28)
 
もちろん、この言葉も使い方には気をつけなければなりません。先の「よかった」と同様に、傍観者が、当事者に向けて使うことは、厳に慎まなければならない、と考えます。いくら神はすべてを益とする、ということそのものが真理であったとしても、それを誰が誰に言うか、という点においては、具体的な人間関係の中にある問題であるのです。
 
けれども、自分の中では、これを使うことができます。自分が神から助けられるというのは、そういうことです。同じ人間から言われたらカチンとくることも、神からであれば、そうではないということがあります。神はどれほどの痛みを以て、私のために耐えてくださったことでしょう。この黙想が前提となっていなければ、どんな福音も偽物と化します。
 
あなたのために、神はすべてを益とすることを囁いていないでしょうか。私が、人間としてそれを言うのではありません。たとえあなたに音声を発しているのが私であったとしても、その背後に神が語ります。神が聖書の言葉から語ります。いまは、パウロの口を通してそれが流れてくるでしょうか。パウロもまた、厳しい情況にありながら、このフィリピ書を通して、叫んでいます。
 
あなたがたも同じように喜びなさい。私と共に喜びなさい。(2:18)
 
では、私のきょうだいたち、主にあって喜びなさい。同じことをもう一度書きますが、これは私には煩わしいことではなく、あなたがたにとって安全なことなのです。(3:1)
 
主にあっていつも喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。(4:4)
 
こうも繰り返しているのです。フィリピ書は全部で4章ありますが、今後のすべての章で、くどいほどに「喜びなさい」と繰り返しているのです。そしてこの1章では、その前提として、祈っていました。
 
4:あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています。
 

◆神から離れない

そして私たちは本日、「私にとって、生きることはキリストであり、死ぬことは益なのです」の言葉を軸に、パウロの置かれた情況と、そこからパウロ自身が希望をもっていることを、教会の人々への思いやりをも含めて受け止めてきました。
 
しかし同じパウロによることが確実と目される書簡の中で、このような書き方をしている箇所があります。ローマ書8章です。
 
37:しかし、これらすべてのことにおいて、私たちは、私たちを愛してくださる方によって勝って余りあります。
38:私は確信しています。死も命も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、
39:高いものも深いものも、他のどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から私たちを引き離すことはできないのです。
 
命や天使が私を神の愛から引き離すことを警戒しているかのような表現がやや奇妙に聞こえます。理屈で言えば、命や天使に気を取られてそれを第一にしか考えずに、神の愛から離れてしまうような愚かなことがないように、という意味で考えることができますが、私はもう少し素朴に、「死のうが生きようが」というレベルで、神の愛にべったり包まれていたいのだ、という「惚れ込んだ」気持ちを叫んでいるのだ、と捉えておきたいと考えています。
 
どんな被造物をも偶像視しない。神がこれほどに私を愛してくださったというところを、僅かでも蔑ろにするつもりはないのだ。パウロ自身の体験からすると、それはそうだろうと思いますが、さて、私たちはどうでしょうか。
 
もっとあっさりと、金に目がくらまないでしょうか。神と金とに兼ね仕えることはできない、とまるで洒落のような言い回しさえ、もはや冗談では言えない状態なのかもしれません。
 
人間関係が第一となってはいないでしょうか。教会に来ても、私たちはしばしば、人間関係で神から離れてしまいます。人間を恐れるということもありますが、鼻持ちならない人間が教会にいる、それで信仰を棄ててしまうということが、現にあるわけです。人間は所詮不完全なもの、鼻で息をする者を恐れる必要もないし、崇拝することも愚かなことです。馬が合わないとしとても、その人のことを見るために教会に来ているのではないはず。
 
私たちは、教会で神の言葉を聞こうとしているのです。人間はそれぞれ罪深いもの、欠点ばかりのもの。実際私が教会に来ていること自体が、なんという大きな赦しの中にあるかという証拠となっているに違いありません。
 
異性関係が人生に君臨することで、神を離れるというのも、残念なことです。ひとを愛することは素晴らしいことであり、神に愛される者としてパートナーを愛することは、この上ない幸福となりうることでもあるでしょうが、それと神とを対置させ、神を棄てるということが、あるかもしれません。
 
ひとは不完全なもの。教会に対しても、理想を求めすぎないでいてください。それほど自己愛に病的にはまっているのでないならば、こんな自分が教会に来ていることを振り返ることができると思います。自己愛の塊であると、少しばかり言い方を変えなければならないのですが。
 
但し、ひとへのリスペクトは怠ってはなりません。ひとを大切に扱うべきです。それでいて、理想化しない、ということです。他人に完全さを求めない。大袈裟に響くかもしれませんが、自分が赦されているが故に、ひとに対しても赦しの眼差しをつねに向けることが肝要なのです。
 

◆死ぬことが益

そう。自分は赦されているのです。あんなに酷いことを平気でした自分が、主によって赦されているのです。神は、おまえを愛している、と呼びかけてくださったのです。それは、多く赦されたから多く愛するという神の論理に続く出来事です。多く、自分の罪を知るからこそ、多く赦されたと分かるのです。
 
どうかすると、「十字架の愛です」とか「十字架を見上げましょう」とか、言葉で言えば義務は果たせたかのように考えることが、慣れたクリスチャンにはあるかもしれません。しかし、それはなんと凄いものでしょうか。凄いというのは、怖いということです。私がしたからです。
 
イエス・キリストの十字架が何であったのか、私たちは先月からずっと見つめてきました。私は「見る」ということで、その復活を自分がどのように受け止めるか、提言しました。もしもそれを受け止めてくださったならば、いまあなたは、神からの言葉が聞こえるし、神からの恵みが見えているのではないか、と期待しました。
 
イエスは、死にました。確かに、一度死にました。私たちもまた、かつての自分に死んだ、と口にします。ただ、それは一種の比喩に過ぎません。まだ生きているからこそ、こうして喋っています。しかしキリストは、確かに死を経験しました。極大な苦しみと恥辱の中で、死んでいかれたのです。
 
21:私にとって、生きることはキリストであり、死ぬことは益なのです。
 
軽々しく言いたくはない、と思います。言ってはならない、と思います。けれども、神自らが、そのタブーを破り、そのブレーキを緩めました。むしろアクセルを踏んで、「死ぬことは益だ」と叫ぶように、私を促します。おまえにはもう、命を与えたのだ。神はそう力づけてくださいます。私が生きているのは、もはや自分のためではなく、生きることがキリストであるというように、なっているからです。キリストがここに生きています。その命を、私は受けています。
 

◆キリストが生きる

あなたもまた、その赦しを受けています。あなたがご自身と神との関係の無さ、あるいは崩れていることを痛感し、罪を赦してください、と祈るならば、赦しを受けます。そうしたならば、あなたはもう何ものにも縛られません。悪しきものの束縛を受けることなく、あなたは自由になります。
 
少しばかり端折りすぎたでしょうか。私たちは、きっと何かに束縛されています。何らかの制約を受けています。命が惜しければ、この仕事をせよ、そうすれば給料がもらえる、食べていける。奴隷制度は、大昔の話ではありません。現代には現代風の、奴隷制度があるのです。会社に、家族を人質に取られている、そう感じたことのあるひともいるだろうと思います。嫌な仕事でも、無理な要求でも、それを拒むことはできなくなっている自分がそこにいます。確かに鎖につながれているわけではないし、鞭打たれるわけではありません。けれども、見えない鎖につながれて、労働の、あるいは罵声といった鞭を打たれているのではないでしょうか。
 
時に、それを自分が他人に強いていることさえあります。教会の中でさえ、いい顔をしなければならない、という制約を受けて不自由を覚えている人がいないとも限りません。「愛し合いなさい」とか「平和でいなさい」とかいう教えに反対する勇気もありませんから、心の中がきゅっと掴まれるような思いで、歪んだ笑顔を呈していることが、あるかもしれません。
 
同じように聖書から神の言葉を聞くならば、こちらを聞きましょうよ。あなたは自由なんだ、と。あなたは、そう簡単には死にません。さしあたり、いま生きています。その生きている場を、自由な気持ち、解放された喜びが満ちる場にしたいではありませんか。「生きることはキリストであり、死ぬことは益」であるのなら、もうすでに、それが与えられているのです。その喜びが、ここにある。それが福音です。パウロが伝えたかった喜びです。キリストをただ「見る」のではなく、キリストが「生きる」ことなのです。
 
21:私にとって、生きることはキリストであり、死ぬことは益なのです。
 
もう、あなたはただのあなた自身のものというわけではありません。あなたの体も魂も、キリストのものです。生きるにも死ぬにも、あなたはキリストのものであるのです。そう「ありたい」ではなく、すでに「生きることはキリストであ」るのです。
 
同じフィリピ書の1章から、パウロの祈りを以て、祈ってこのメッセージを結びます。
 
9:私は、こう祈ります。あなたがたの愛が、深い知識とあらゆる洞察を身に着けて、ますます豊かになり、
10:本当に重要なことを見分けることができますように。そして、キリストの日には純粋で責められるところのない者となり、
11:イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされて、神を崇め、賛美することができますように。

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