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荒れ野に道を

マルコによる福音書の講解説教が、ゆっくりと始動する。最初の1節、「神の子イエス・キリストの福音の初め」は、恰もこの福音書全体のタイトルを示しているかのようである。先週は、ここから、大いなる「喜び」を見出し、また喜びのメッセージを聴くということに終始した。
 
今日は続いて、洗礼者ヨハネが登場する場面を扱う。このヨハネなる人物については、いろいろ取り沙汰され、説明されることがあるが、もちろん定かなことは分からない。ここに書かれた情報がすべてなのだ。ただ、キリスト教会にとり、洗礼者ヨハネという人は、どうしても必要で、非常に重要な役割を果たしていたことは確かである。4つの福音書どれにも登場するのである。また、その人物像や位置づけについても、殆ど違いがないと言ってよい。ヨハネは、案外キリスト教というものに対して確実な視点を与える、定点と言えるのかもしれない。
 
説教者は、このヨハネについて一定の説明を施す。その意義として、当時における「宗教改革」を興す者であった、という見解も与えた。旧約の律法を守るという形で、神に従うことが主眼であった宗教的文化の中で、「罪の赦しの悔い改め」という、個人の意識の観点を立ち上がらせた意味は、確かに大きい。
 
それなのに、まるで「家の宗教」であるかのように、子どもは親と同じでなければならない、とプレッシャーをかけることが、近年特に問題になっている。また、牧師の子どもがちやほやされて牧師になるようなことが、現実にはいくらでもある。中身がどのようであるのかには関心がなく、あの有名牧師の息子だから確実だ、と招き入れるところから、不幸が生じる。その罪深さは、それを支持する人々にも及んでいるのだが、自分ではなかなか気づかないものである。
 
さて、オンラインの読書会をこの教会では続けている。コロナ禍の置き土産、と言っていたような気がするが、謙遜はともかく、これは実は非常に利用価値のあることだろうと私は考えている。その場に出向かなくても参加できるというのは、いろいろ弱い立場にいる人にとり、正に福音であろう。遠隔地からも、苦労して費用と時間をかけて教会まで行く必要がない。もちろん、直接会うという意義を認めないわけではないが、「読書会」という名目であれば、オンラインは恰好のメディアであると言えるだろう。
 
先日読み終わったが、『現代思想2024年9月 vol.52-12 特集・読むことの現在』の中に、その読書会の良さが論じられているものがあった。他者の目を通して読む、という経験は、自分だけで読んでいる世界を打ち破ってくれるものである。大学で、哲学書を囲んで読んでいたときの記憶がまざまざと蘇った。私も口を合わせて言おう。読書会はいいものだ、と。
 
リモートでもそれは殆ど可能である、と思う。聖書についても、礼拝後、有志が集って、受けた説教と聖書箇所から自由に話し合う場を、私が提案したことがある。非常に実りの多い、そして聖書の言葉が生きていることを知るひとときであった。教会員であっても、他人の聖書の読み方や感じ方というものは、案外知らないものである。教えられることが多々あったことは言うまでもない。
 
この教会では、牧師の著書がその読書会のテキストとして使われていたが、今回で終了だったという。私も知っている。言葉数の多くない本である。文字数だけからすると、高価に感じられるかもしれない。しかし、一つひとつの言葉や文章がよく練られていて、無駄がない。というより、行間にあるべきものが冗長に語られておらず、それでいて書かれた言葉が的を射たものであるために、ぐっと刺されるような経験を度々するものである。読書会のテキストとしては、読書量の負担が少なく、内容が濃くなり、誰もが何らかの感想を出しやすい、優れたテキストであるだろうと思う。
 
マルコ伝から離れてしまった。今日、この聖書と説教とから、聴く者が豊かに思い描くであろうイメージは、「荒れ野」であったと思う。しかし、そのイメージで誤解を生じさせないために、説教者は、水のない砂漠のような風景ではないことを強調する。ヨルダン川がそこにある。ただ、私たちが町の風景で日常見ているような、「もの」が見当たらないところである。何かがあるわけではない。もちろん何かがあるのはあるのだが、人間にとり、それは「何もない」と表現してしまうような場所である。だからこそ、モーセは天を仰ぐしかなかった。地上の何かに見とれてしまう暇はなく、天を見上げて、神と話すしかなかったのだ。
 
今道友信氏が寄せた新聞コラムが取り上げられた。「自分と出会う」というテーマだった。自分というものを見つめるときに生じる、深い眼差しと思索がそこにある。これについてはいま説明をすることは割愛せざるを得ない。私がそもそも哲学という世界を知ったのは、そういう問題意識が必ず関わっている。自分を見つめるということを欠くような哲学者がいたら、偽物だ。同様に、自分を見つめるということを省いているキリスト者もまた、偽物である。
 
自分の中に、正に「荒れ野」というものがある。要するに、そういうことだった。痛いほど分かるし、分からねばならない。思えば、戦前と呼んでもよいだろうか、古の青年たちは、必ずそこを通っていた。文学者は皆、それを悩んでいた。だから、書いた。思想家も、とことん自分と格闘していた。だからまた、そうした意識をもつ青年を魅了した。青年たちは、哲学を、囓る程度であったかもしれないが、重要なアイテムとしていた。デカルト・カント・ショウペンハウエルを歌う「デカンショ節」は、その風俗を明るく表しているとも言えよう。
 
洗礼者ヨハネが現れたのは、そういう「荒れ野」だった。ヨハネは、「悔い改めよ」と人々に、方向転回をさせるに相応しい、矢のような言葉を打ち込んだ。自分の意識に気づかせ、自分と神との関係を自ら問うように仕向ける、天才的な発想に基づく言葉だった。もちろん、それはヨハネの才能というよりも、神が与えたものだろう。だからまさに、「天が与えた才能」なのである。
 
説教者は、この「悔い改めよ」の先に、ヨハネの意図を明確に示した。それは「神に帰る」という目的である。自分を見つめたとき、自分の中に罪を見出すだろう。神との関係を断ち切ったのはこの自分自身だ、ということに気づかされたとき、ひとはきっと絶望に陥るだろう。そんな自分が嫌いだ、憎らしい。こんな自分などいなければよかった。いっそ「生まれてこない方がよかった」というところに心が向かうのも、よく分かる。そして、そこに留まってしまいそうになる思想が、近年話題になっている。
 
だが、キリストもヨハネも、そこで終わりはしない。それが結論ではない。何故か。主体は、近代人が思いこんでしまったように、この私ではないからだ。主体は神である。実際、かつては神であっただろう。私は罪にまみれている。どうしようもない人間である。救いようのないバカである。だが、その私をイエスは受け容れてくださった。その私の代わりに、とんでもない苦痛を背負い込み、血を流し、殺された。
 
そう、「悔い改める」という言葉は、「方向転換をすること」に匹敵する。すると、神に背を向けていたこれまでの自分が、神に「立ち帰ること」を意味することは明白である。それらは、実のところ同義だったのである。
 
説教者はヨハネの姿に、旧約の預言者エリヤを重ねる。否、それは福音書そのものの理解である。主の道を備える者として、預言者エリヤは、ユダヤの人々にも信じられていた。だから、イエスの十字架の言葉に対して、エリヤを呼んでいる、と口々に叫ばれたのだ。説教者は、出エジプト記やマラキ書を丁寧に開きながら、このヨハネが、無根拠に現れたのでもなく、無根拠に自分の思想を告げたのでもないことを語る。
 
こうして見てくると、やはりヨハネの登場は画期的である。ユダヤの精神的な領域に、革命的な影響を与えたと言えるはずだし、それを受け継いで登場するイエスのために、良き道を備えたことは間違いない。
 
それは如何にも厳しく、人々に迫ったような迫力を感じさせる。私たちもたいてい、そういうイメージでヨハネの発言をイメージしていたのではないか。ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が洗礼を受けに来たとき、よくぞ来たとは言わず、「毒蛇の子らよ」と厳しく迫っている。斧がもう置かれているぞ、と脅しているのである。だが説教者は、ここでイザヤ書を引く。
 
エルサレムに優しく語りかけ/これに呼びかけよ。(イザヤ40:2)
 
この「呼びかける」という訳は、それはそれでよいのだが、実のところ「口説く」というニュアンスがある語がこにあるのだという。口説き落とすというのは、少々品が悪いかもしれないが、この次の節に「荒れ野に主の道を備えよ」という言葉があるのを見ると、どうしてもヨハネの役割との重なりを感じざるを得ない。つまり、ヨハネは乱暴に福音へと促したのではないはずなのである。
 
説教者は、信濃町教会の井上良雄氏の名を出した。カール・バルトやブルームハルト父子についての著作が目を惹く。そのブルームハルトの言葉からだろうと思うが、「待ちつつ急ぎつつ」という信仰の姿勢を取り上げたのだ。否、この説教では、「待ちながら立ち続ける」という神の姿を、トゥルンアイゼンとのエピソードから説教者は告げた。
 
イエスはまた来る。黙示録の講解説教から、私たちはそれを待ち望んでいる。同様に、神もまた待っている。私たちが、急ぐのを待っている。いま急いで、こうして与えられた荒れ野の道を踏みしめて歩くのを待っている。私たちは、いまどうすればよいだろうか。説教を結ぶその言葉を引いて、このレスポンスを閉じよう。
 
「指をさすのです。主イエス・キリストを。神を締め出してしまったこの世界で、小さな石をどけるのです。草を抜くのです。荒れ野に道筋を整えるのです。」

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