逃れの町 (ヨシュア20:1-6)
◆居場所
「居場所」という言葉が特別な意味をもって使われるようになったのは、ある人(藤谷秀氏)の指摘によると、1990年代頃からだそうです。自分はここにいてもいいという安心感をもてる場所のことを、たとえばそう表現するのだと理解しておきましょう。
自分が何らかの役割をもってそこに参加できない、そのような社会的な意義を意味することもあるでしょう。しかし、そもそも存在的に、そこにいてはならない、そこにいることが認めてもらえないという意味で居場所がないということは、さらに厳しいものです。
「シカトする」という言葉は、もう60年ほど前から言われていたそうですが、花札の「十」月の紅葉の中の「鹿」がそっぽを向くことに由来するとされています。賭博の世界の隠語で「しかとう」というのがあったそうです。「とぼける」のような意味合いから、若者が使うようになって、「無視する」ことになり、いじめに関係するようになったと聞きました。
シカトされるのは、そこに存在することを認められないことを意味します。これは辛いものです。しかし私は、障害者やマイノリティ、子どもや女性など、存在を認められていない事態が頻繁にいまもあるように思えてなりません。ウェブの中でも、スルーとかブロックとか、陰湿なものが多々あることも考え合わせると、この社会と個人は、誰かに居場所を与えないことを、自覚なしに平然と行うことができるものだと悲しく思います。もちろん、この私も。
「いてくれて、ありがとう」という言葉で、人に接しようとする方々がいます。とても好ましく、出会った人を助けることでしょう。けれども、それは誰に対しても言えることなのかどうか、問い直す必要があろうかと思います。もしも、誰かに対しては除外することがあるならば、そこに、居場所を与えない事態が発生してしまうからです。
◆逃げ場
夫の前に居場所をなくした妻が、夫と離縁を成立させるために寺に駆け込むという制度が、江戸時代にありました。駆込寺、あるいは縁切寺などといいます。足かけ三年経つと離縁が成立したというのです。さだまさし(グレープ)の「縁切寺」(1976年)がこの言葉を世に広く知らしめたような気がしますが、そこでも、この三年ということを歌詞に入れていました。
女性に対する配慮があるということには、現代からすると驚きを隠せません。女性の社会進出という点からも、江戸時代はひょっとすると現在よりも進んでいたのかもしれず、時折保守的な政治家が掲げる、夫が外で働いて妻が家を守るといった日本の伝統家族と称するものとは、だいぶ違うものがそこにはあったように見受けられるのですが、どうでしょうか。
女性の逃げ場として、そうした寺が用意されていたのでした。もちろん、調停がどうしてもできなかったときにそこに逃げ込むのであって、あるいは逃げ込んだ後からも、できるだけ調停がなされていたというのが実情であるでしょう。しかし体の一部が寺の門の内に入れば、あるいは持ち物を投げてそこに入れば、男は手出しができなかったというルールだったなどと聞くと、時代劇で見たような劇的なシーンも、現実にあったことが窺えます。
これも1990年代辺りからでしょうか。「こども110番の家」(福岡での表記は「子ども」)が地域に設置され、子どもが危機的状況で飛び込んでよいというサインが考え出されました。それが各地にあることだけでも、監視カメラのように、一定の抑止力が期待できます。
逃げ込む場所があるというのは、心強いものかもしれません。もちろんできるなら、そのような場所を利用しなくて済んだほうがよほどいい。でも、いざという時に、自分を迎えてくれる場所がある、というのは、やはりありがたいものではないでしょうか。独り立ちした子どもが、なんだかんだ言っても親がいて、そこに帰ることができるのだとしたら、それがないよりは、安心するということがあろうかと思います。
何らかの形でそうした場所が、誰にも必要だと思われます。それだけで、孤独感は癒されるということもあるでしょうし、何よりそこに、自分がいてよいという気持ちを覚えることができる余地ができます。
◆匿うこと
本日開いたヨシュア記には、古代イスラエルのユニークな法を見ることができます。
20:2 イスラエルの人々に告げなさい。モーセを通して告げておいた逃れの町を定め、
20:3 意図してでなく、過って人を殺した者がそこに逃げ込めるようにしなさい。そこは、血の復讐をする者からの逃れの場所になる。
故意の殺人については、イスラエルの律法は厳しい罰を伴っていました。現代のような、基本的人権に基づく教育的観点などは思いもよらないものでした。しかし、意図のない過失について、たとえ結果が重大ではあっても、故意の殺人と同罪にしかできないということは、公平さを欠いていると思われたのではないでしょうか。もちろん、これは神が与えたという配慮であるとしても、もちろんです。
過失致死罪については、「目には目を」の復讐がありえた社会では、むしろ加害者を護るべきである。やはり、古代でも、不条理と思えることは、ちゃんと考慮されていたのでしょう。「逃れの町」については、まず民数記で定められています。
35:13 あなたたちが定める町のうちに、六つの逃れの町がなければならない。
35:14 すなわち、ヨルダン川の東側に三つの町、カナンの土地に三つの町を定めて、逃れの町としなければならない。
具体的な逃れの町の名は、ヨシュア記21章にあるので、興味をもたれた方はご覧下さい。また、同じ民数記には、その匿い方についてのあらましが書かれてあります。
35:24 共同体はこれらの判例に基づいて、殺した当人と血の復讐をする者との間を裁かなければならない。
35:25 すなわち、共同体は、人を殺してしまった者を血の復讐をする者の手から救い出し、共同体が、彼の逃げ込んだ逃れの町に彼を帰さなければならない。彼は聖なる油を注がれた大祭司が死ぬまで、そこにとどまらねばならない。
もしその加害者が、うっかり町を出たとなれば、復讐する者に殺されたとしても、罰されることはないのだそうです。当の大祭司がその人を匿う権限をもっているのか、「大祭司が死んだ後はじめて、人を殺した者は自分の所有地に帰ることができる」(民数記35:29)と言うのですが、果たしてその時に復讐者はやってこないのかどうか、大変気になります。
日本でも、仇討ちという制度がありました。武士の中では暗黙の了解でしたが、江戸時代には、制度化されていました。逃れの町の規定は、仇討ちを常に正義とすることから、過失を犯した人を匿うことを目的としていたように見えます。
◆カントの原則
18世紀ドイツの哲学者カントは、近代思想の源とも見られ、西洋哲学史における影響は絶大です。人間の思考そのものを問い、人間内部の理性に多大な信頼を寄せました。人は、万事を完全に説明し尽くすことはできないが、人は自ら立てる法則に従って立派に生きることができることを説きました。
「法則」や「原則」というと、日本人の感覚からすれば、一応掲げておくべきものというくらいにしか見えないかもしれません。「原則として」という言い回しは、「理屈はそうだが実はそうでない場合がある」という、どこか建前と本音のような扱いを「原則」にしているようですが、西洋で「原則」というのは、例外のない規則です。そのくらいの常識を踏まえずして、外交を司っている場合があるとしたら、怖いものがあります。
カントの掲げるものは、そのような「原則」でした。理性が自ら例外なく立てる原則があり、法則が与えられるとするのです。そのため、時には多くの人が首を捻るようなことも言いました。それはイエスが譬え話を語るように、ある場面を物語ることで、思考実験をするものでした。
ある友人が突如家に来て奥の部屋へ行く。そこへその友人を殺す意志をもった者が来て、その友人が家にいるかと尋ねたとする。ここで嘘をつくならば、その後起こったことについて責任を負わねばならない、とカントは言うのです。「いない」と嘘を言った後に、その刺客が外に出て友人と出くわして彼を殺したならば、責任があることになるのだ、と。「いる」と答えた時に友人はすでに外に逃げたかもしれないし、家の中を刺客が探している間にかけつけてきた人々に取り押さえられるかもしれない。そうしたことは分からないのだから、自分が嘘により影響を与えることには、それ相応の責任を負わねばならない、という理屈です。たとえ「人間愛」からであろうと、善意によるものであろうと、嘘をつくとなると、人間界の信頼の法則を破壊することになるのだ、というのがカントの考えでした。
さすがに非難囂々だったとも言われています。人の感情には反すると言えましょう。けれども、カントがいくら嘘を毛嫌いしていたとはいえ、確かに「法則」とはそのようなものではあるでしょう。あるときはAがよいが、別のときにはAでないほうがよい、とするならば、いったいいつどのような場合にそれらを区別して判断できるというのか、私たちには分かりません。カントの言わんとすることについては、私は理解したいと思います。
それでも、それではあまりに救いがないようにも思います。姦淫の女は殺されるしかない、放蕩息子は野垂れ死にするしかない、それでは「法」を救う道はあっても、「人」を救う道が見当たりません。かの友人も、匿ってくれる、隠してもらえると信頼して、その人のところに逃げ込んだに違いないのです。それへの正解はないかもしれませんが、正解はこれしかないのだ、と割り切るには、私は余りに感情的です。そのために、騙されることもありましょうが、たとえ騙されてもいいという、甘い思いがどこかに潜んでいることを否定はできません。
◆教会
さて、思考実験とばかりは言えないようなことがあります。教会に、誰かが逃げ込んだときに、教会は果たして匿うかどうか、という問題です。法的にどうかということはさておき、駆込寺ならぬ、駆込教会たり得るかどうか、という問いかけです。
実は、「駆け込み寺」を銘打って活動している牧師もいます。ヤクザ稼業から牧師になった方で、いまは札幌で尊い働きをしています。頭が下がります。自殺の名所近くの教会の牧師が、自殺をしないように呼びかけ、保護する活動をしている例もあります。これらはまさに、SOSの現場、生と死の境目にいる人を食い止める働きです。北九州では、各方面で知られるようになった活動があります。ホームレスの人々が、どんなに大切にされているか、計り知れません。
教会に逃げ込む話とくれば、思い出すのが、『ああ無情』の初めのところ。児童文学的な題ではなく、ミュージカルとして『レ・ミゼラブル』のまま知られるようにもなりました。両親を亡くし、姉に育てられるが、その子たちのために一切れのパンを盗んだことで、ジャン・ヴァルジャンの運命が変わります。その罪からなんと19年後に牢獄を出てきた彼は、司教の許を訪ねます。逃げ込むというのとは違ったかもしれませんが、とにかくキリスト教の司教と出会います。けれどもそこで銀食器を盗んでしまいます。彼は捕まりますが、司教は、自分が与えたのだと庇いました。これで彼の心が変わるのです。
教会が、信徒の献金により成り立っている以上、教会会計は信徒の合意のもとに用いられなければならなくなりました。ワンマン牧師が財産を勝手に用いてよいことはありません。そのことが、教会の動きを制限してしまうこともあるでしょう。教会が、立派に組織として運営されていかなければならないのは、世の常識です。しかし「組織」は、しばしば組織の生命を伸ばすために、「人」を犠牲にすることがあるものです。
それぞれの教会の立場や歴史、考え方の違いもあります。まして、教会はこうするべきだ、という決定的な掟があるようには思えません。ただ、耳が聞こえないというだけで排除したり、柄の悪い者を追い出したりすることはままあるようですし、プライバシーを晒したり、性別を二分したりするのは、多くの教会では当然視され続けているのではないかと危惧します。
◆罪
いまのような語り方は、聞く方を、教会にいる人としてのものだったような気がします。つまり、教会に一定の居場所をもっている人に対して、語りかけていました。けれども、耳を傾けておいでの方々の中には、そうでない方もいらっしゃいます。聖書の話をひとつ聞いてもいいか、という思いの人もいるでしょうし、何かを求めて聖書の話に期待していた人もいることでしょう。
初めの「居場所」について話した辺りで、自分はどこに居場所があるのだろうかと考え始めた方もいるかもしれないし、自分はそんな居場所がないのだろうか、と不安を覚えた方がいらしたら、すみません。不安を与えることは、本意ではありません。
けれども、私は敢えて申し上げます。聖書のメッセージが、少しも不安を与えず、常に安心だけを与え続けることはあり得ない、と。
心の弱った人に、堅い食物を強制するように、厳しく言うつもりはありませんが、常に、神様は「そのままでいい」と言っていますよ、という調子でキリスト教を紹介することは、適切ではないと考えるのです。聖書はそのようなことだけで終わるものではありません。
確かに、旧約聖書の神を、厳しい怖い神だというように感じることは、あり得るでしょう。対して、新約聖書では愛の神という側面を強調しているのも、本当です。しかし、人間が単純に選り分けたままに、神はこうだ、と決めていくことは、あまりに人間中心です。
ですから、私もまた、神はこうだ、と強く言うことは致しません。あなたにとっての神は、あなたが聖書を通じて出会う神です。時にそれは偏っているかもしれませんが、あなたが独自に出会う神は、あなたにとっての真実です。それは、あなたが思い込んだだけがすべてだという意味ではなく、同じ神に向き合い、その神に従うことを告白している、キリストの僕たちの声に共感し、共にこの世を旅する者として励まし合いながら、また自分の気づかぬことに気づかせてもらいながら、新たに知ることを含んだ上での、真実です。
だから、決めつけるのではなく、キリストの僕が共通して知るべき神の一面は、ご紹介します。それは、「罪」ある己れを自覚させる神です。
ここでは、「過って人を殺した者」(3)が指摘されます。私たちは、人を殺していないか、自分をよく省みる必要があると思うのです。マタイの福音書の、有名な山上の説教の箇所で、イエスはこう言っていました。
5:21 「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。
5:22 しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。
これは一例です。イエス・キリストは、なんでも「そのままでいい」などと仰った方ではありません。このように、旧約聖書にある律法を、それどころではない、もっと厳しい意味で「罪」の中に数え入れた方です。私たちは、よほど研ぎ澄まされた感覚で「罪」について捉えようとするつもりでいないと、このキリストの声が聞こえません。もしそうだと、キリストの救いや恵みといったものも味わえないということにもなりかねないのです。
◆イエス・キリストのところへ
ですから、ヨハネの手紙第一の初めのところにあるこの指摘は、改めて私たちの指針とすべきものであることが分かります。
1:8 自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。
1:9 自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。
1:10 罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とすることであり、神の言葉はわたしたちの内にありません。
私たちは、この世で、逃げ出したいところが多々あろうかと思います。置かれた状況から逃げ出したい、この針の筵から逃げ出したいのにできない、深刻ないじめの中から逃れたい、そんな苦しみがあるかもしれません。極度の緊張感の中に置かれ続けている、見通しの立たない将来に絶望しかけている、辛い人間関係に悩んでいる、そしてもしかすると、職場や学校に、あるいは自分の家にさえ、自分の居場所がないと思っている、そんなことがあるかもしれません。
自分がやったこと、いわば自分の「罪」によって、そうした場面に追い込まれているということもあるでしょうか。どこか逃げ込む場所があるのならば、まだいいのに、それがないとなると、休まるところがありません。享楽に逃げ、酒に逃げ、あるいは好ましくない異性や人間に逃げる、そういうことがあり得ませんでしょうか。
でも、逃げ場所を間違っていないでしょうか。
あなたを完全に匿うことができるのは、そんなものでもないし、そんな人々でもないはずです。神のもとに、または神のより具体的な現れとしての、イエス・キリストの許に逃げ込むことこそ、必要だったのではないでしょうか。イエスはあなたを完全に匿うことができます。弁護だってします。血だらけの両手を拡げて待っています。そこに飛び込む気持ちがありますでしょうか。その血が、自分がつけた傷なのだということにさえ気づいていれば、その手はあなたをしっかりと抱き留めてくださいます。聖書は、そのようなことを告げているのだ、と私は受け取っています。
旧約聖書の逃れの町の規定では、次のように言われていました。
20:6 彼は、共同体の前に出て裁きを受けるまでの期間、あるいはその時の大祭司が死ぬまで、町にとどまらねばならない。
私たちは、神の前に出て裁きを受けることになります。けれども、それまでずっとその逃れの町に留まることができます。また、大祭司が死ぬまで留まるべしと言われますが、イエスは「永遠にメルキゼデクと同じような大祭司」(ヘブライ6:20)となったのであり、また復活のイエスにはもう「死ぬ」ということはありませんから、逃れの町にはいつまでもあなたの居場所があることになります。
イエスは、この逃れの町に、あなたを受け容れようと待っています。すると、神の支配する領域、言い換えれば神の国に、あなたの居場所が与えられるでしょう。そして、神はあなたのそばに常にいてくださることでしょう。あなたは、神と共に住むことが、必ずや許され、安らぎを与えられることでしょう。そんなイエスと、きょうお出会いくださるように、と私は強く願っています。