未来に備えて
経済を大義名分にしてか、保健所を減らし、病院は利益を上げるように経営せよと圧力をかけていったあげく、新型コロナウイルスによる疫病が拡大すると、医療が足りないなどと言い始め、少ない医療従事者を窮地へ追い込んでいったのが、この2年近くのありさまだった。
社会科の教科書にもあるが、減反政策というものがある。米が余るから生産を減らすように仕向ける。食生活の変化という建前を大義名分にして、米の生産を抑え、他の食糧を海外から輸入することを奨励していく。関税のかけかたで国際協調を大義名分として、国内の農業を窮地に追い込んでいく。
さて、これらはまた別のことであるから、パラレルに考える必然性はないだろう。だが、これでは何かまた困ることが起こるのではないか、という気もしてくる。
私たちの懐く危機感とは、何だろう。
「方丈記」を見ていた。自然災害が都を破壊するなどの有様を見ていわゆる無常観を語るものとされているが、鴨長明は、災害の年はしっかり覚えているのに、飢饉の年は忘れたなどと言っている。飢饉のことは、苦しすぎて、思い出したくもないかのようである。さらにそこに疫病が追い打ちをかけてくると、末法思想が定着するのもさもありなんというところだろうか。いやはや、飢饉の怖さ、これを私たちは、知らないし、考えてもいない。ちょうど、ついこの間まで、疫病の怖さを考えてもみなかったように。
危機管理に薄い社会基盤は、一人ひとりの意識の問題でもある。少しばかり「新規感染者」の数字が下がると、どっと人出が増える。新型コロナウイルスのために亡くなる方の数は、目に入らないらしい。必要な買物のためにこれまで出ていた者たちは、街の風景の違いに目を見張ることとなる。きっとコロナ禍以前はそれがあたりまえだったに違いないのだけれども。
危機のために金銭や労力を費やすことは、未定のことのために無駄を生むとでも考えているのか、また、いまが楽しければそれでよいという程度のお気楽さであるのか、私にはよく分からない。だが、備えをすることや、十年後、百年後のことを想定して思案し、行動することを主張する政治家を評価しないできた、私たちの責任だと理解することこそが、民主主義というものではないのか、と私は考える。政治家が悪い、とするのは、民主主義とは別物であるように思えてならないのだ。
聖書も一種の末法思想のようなものだとするならば、先のための備えというものは、必要ないのかもしれない。キリスト教世界の様子を見ていると、そんなふうに見てしまいそうになる。確かに「いま」は大切ではあるが、ほんとうにそれだけであるのかどうか、聖書を片手に、あるいは両手に生きる人々が、祈りのうちに進んで行かなければならない道というものを、幻の中にでも見る必要があろうかと思っている。
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