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イエスの弟子であるかどうか

ルカ14:25-33 
 
「弟子の条件」などという見出しがこのごろの聖書には付いていますが、時にはこうしたタイトルを疑うことも必要です。本当にそんなことを言っているのだろうか、と考えましょう。だってこの見出しは「聖書」ではありませんから。人間の編集者が、勝手に考えて付けた看板です。人の考えを鵜呑みにするのは、聖書の読み方ではありません。
 
この箇所の主題は、「私の弟子ではありえない」でありましょう。三度繰り返し、全体を囲っています。挙げている項目は、すべて否定的な条件です。もしこういうふうであったら、イエスの弟子ではありえない、としています。イエスの弟子にはなれない、とは言っていません。だから、たんに弟子になるための条件を言っているのではありません。
 
家族や自分の命を憎まない者。自分の十字架を負ってイエスについて来ない者。財産を悉く捨て去らない者。こういう者は弟子ではありえないのだそうだ。Aでない者はイエスの弟子ではありえない、という命題。論理的に換言すると、イエスの弟子であるならば、必ずAをする、ということになります。いわゆる対偶の真理という論理の初歩です。
 
但し、このときAをすればイエスの弟子である、という論理はありません。イエスの弟子である者は、Aの内に含まれる、と言っているだけです。時にひとは勘違いをします。Aをすればイエスの弟子である、という意味は、そこにはありません。そうではないのです。行為によって救われるというような思い込みを脱する必要があるのです。
 
けれどもまた、Aを軽視してよいわけでもありません。しかし先ほど挙げた三つのことはつながりにくいので、間にある具体的なたとえに注目してみます。すると「腰を据えて考える」という特徴ある表現に目が向きます。塔の建築費用を予め計算することと、戦いの兵を戦力として予め計算しておくことです。
 
それも、どちらも失敗する例を想定しているように見えます。それを踏まえて、同じように財産ををも悉く捨て去るべし、とまとめています。これはどういうことでしょうか。何が「同じように」なのでしょうか。腰を据えて、落ち着いて思案し、結果がどうなるかを予想して、これではだめだと気づくべきだ、と言っているのでしょうか。
 
結局、自分が用意していた費用や戦力では実現できない、無理なのだ、ということを覚れ、ということなのでしょうか。自分の力、人間が頼りにするようなものによっては達成するものではない、ということに気づくのが、腰を据えて考えた結果だというのでしょうか。ひとは、自分で何かをしようと計画します。けれども自分の力では達成できないのです。
 
あなたはキリストの弟子ですか。キリストに従っている弟子ですか。それは、自分の力では思うようなことは何もできないと知っているということを意味するはずです。そして、もうあなたはすでに、命を憎み、自分の十字架を負い、また財産を捨てているはずなのです。キリストの弟子であるかどうか、自分を見つめたいものです。

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