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死ななきゃ治らない (ローマ6:1-11, エゼキエル18:29-32)

◆森の石松

まずお断りします。これからのお話では、「馬鹿」という言葉を多用します。放送禁止用語ではないものの、通常あまり好ましくない語だと見られ、とくに人によっては非常に心傷つく言葉となっている場合があります。しかし、ひとを罵るためではなく、また扱う内容からしても私なりに気を払い、決して悪い意味をもたせるものではないつもりで、以下使うこととします。そのため普通の言葉のように使用することとします。それでも、言葉そのものに抵抗のある方は、どうぞお聞き飛ばしになりますように。
 
さて、広沢虎造(2代目)という人をご記憶の方は、もう少なくなったかもしれません。そもそも「浪曲」というものを知らないという方々もいるでしょうが、中には今やテープやCDのみならず、配信でも聞けるとあって、根強いファンもいることと思います。私もライブで知っているとは言えないのに、「馬鹿は死ななきゃ治らない」というフレーズがどうにも耳に残っているのです。誰かがギャグのように使っていたのかもしれません。子どもたちの間でもけっこう口にされていたような気がします。
 
この「馬鹿」とは、森の石松のことです。清水次郎長の子分です。次郎長は、幕末のヤクザのようなところから、明治では実業家ともなった人物ですが、その子分たる石松は、1860年に殺された、実在の人物とされていますが、定かではありません。ただ浪曲では人気のキャラクターで、「あんた江戸っ子だってね、食いねぇ、寿司食いねぇ」のフレーズでも有名です。
 
博打で次郎長の大金を掏ってしまい、「馬鹿は死ななきゃ治らない」と仲間からからかわれたシーンが、浪曲でもウケました。元ボクサーでタレントのガッツ石松も、この森の石松の名を取っています。正にこの「馬鹿は死ななきゃ治らない」がモチーフであると聞いています。
 

◆別の意味での「死」

論理的に考えると、この「馬鹿は死ななきゃ治らない」という言葉は奇妙です。死んだから治る、というのはおかしなことです。健康ブームの中で、「健康になるなら死んでもいい」などというおふざけが流行ったこともありましたが、治すためなら死んでもいい、というように聞こえる言葉は、確かに変です。一種のレトリックです。だから浪曲を聞いた者の心に残ったのでしょう。
 
要するに、馬鹿というのは治ることがない、という意味だと思います。石松は、博打でからかわれたのみならず、ヤクザとして正に馬鹿正直なところがありました。大金をもっていると正直に敵に明かしたばかりに、騙し討ちに遭って殺されたといいます。あまりに正直なために命を落としたわけで、本当に馬鹿のために死んでしまいました。馬鹿は死んでも治りませんでした。
 
ここで「死ぬ」というのは、そのままストレートな意味です。「生物学的な死」とでも言っておきましょうか。肉体は死んでも魂は生きる、などという考え方もありますが、そのときにも、生物学的な死を頭に置いていることになります。
 
「死」とは何でしょうか。他の意味でその言葉を使うとき、私たちはそこにどんな意味をもたせているでしょうか。つまり「死」を「メタファー」として理解することがあると思うのです。たとえば、「こころ」の死が考えられるでしょうか。
 
ある種の犯罪は、心の殺人だ、と言われることがあります。もうその人の心を、立ち直れないようにしてしまうのです。これを他人に対してやってはいけないのはもちろんですが、では自分の心の中でそのようなことはあるでしょうか。
 
かつての自分に死ぬ。自分の中の古い自分のイメージが崩れる。イメージを壊したいと思う場合もあるかと思いますが、崩されるのも辛いものです。昨日までの自分の考え方が、もはや役に立たなくなったら、それまでの自分が死んだというように思うことがあるかもしれません。「心理学的な死」と言うことができるかどうか知りませんが、「生物学的な死」と違って、どうかすると「再生」が可能であるかもしれません。
 
そのような「死と再生」は、文化的にもよくあることだと聞きます。詳しく調べてお知らせすることは控えますが、世界各地にある「成人儀礼」は、まさにそのようなものだと理解されています。成人になる儀式によって、それまでの子ども時代に死んで、大人としての集団の責任を負っていくのです。新しく成員として生きて行くことを前提として、古い自分に死ぬのです。
 
この死の後には、必ず新たな「誕生」が控えてします。もちろんその「誕生」もメタファーです。新たな情況に適応していくための、新たな自己イメージや価値観がそこで創出されることになります。このプロセスが、一つのイニシエーション(通過儀礼)となるわけです。
 
このとき「死」は、ひとつのアイデンティティから、別のアイデンティティへと移行する心理過程の、一つの局面であると言えるかもしれません。私たちの関心を、こちらの方に移すことにします。もちろん、それを聖書の中にある事柄として、訪ねてみることにします。
 

◆洗礼で死ぬ

4:私たちは、洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかる者となりました。それは、キリストが父の栄光によって死者の中から復活させられたように、私たちも新しい命に生きるためです。
 
これを書いたのは晩年のパウロです。ローマの信徒への手紙の6章の一部です。パウロは、イエスの直接の弟子ではありません。地上を旅していたイエスには、いわゆる十二弟子が同行していました。イエスの生活の一部始終を知る弟子たちと違い、パウロが知るイエスは、特別なものでした。
 
イエスの弟子たちを迫害していたとき、パウロはまだサウロという名で聖書には記されています。サウロは、キリストを信じる者たちを追いかけて、見つけ出しては縛り上げていました。しかし、ダマスコへ行く途上で、突然天からの光が彼の周りを照らします。復活のイエスからサウロに呼びかけがあり、サウロは目が見えなくなりました。そのようなサウロを、始まったばかりの教会が受け容れ、サウロは新たにイエスの弟子としての人生を始めます。
 
つまりこのとき、サウロはイエスに出会い、死んだ体験をしたことになるでしょう。一時的に視力を失い、再び視力を回復したときに、新しい世界が見えた。新しい人生が始まったのです。サウロは後のパウロとして、生まれ変わったことになります。
 
ローマ書では、「洗礼」というものを重んじています。当時洗礼というと、洗礼者ヨハネの洗礼で悔い改めの意を示すという儀式のようなものとして見られていたかもしれません。これもまた、「死と再生」のイニシエーションと言えるでしょう。先の言葉では、洗礼によって、キリストと共に死んだことが挙げられていました。もちろん一つの象徴的な死ではあるでしょうが、キリスト教では結局このことが大変重要な鍵になります。
 
キリストが十字架で殺されたこと。ここに、そのかつての自分に対する死を重ねることができるからですが、それはその死を以てすべてが終わったわけではありません。キリスト教にはその続きがあります。いえ、むしろそこからが本当の始まりとなります。復活です。キリストが神により復活させられたように、私たちも、キリストと共に死んだところから、新しい命へと復活するというのです。
 
尤も、パウロ本人の場合は、必ずしもこの洗礼という事情に沿っていたわけではないでしょう。パウロは復活のイエスとの出会いにより、それまでの律法に熱心でイエスの弟子たちを摘発していた人生から、向きを換えて新たな方向に歩むようになったのでした。あいつらは間違っている、自分は正しい、という思い込みから解放されて、新しい道を教えられたのです。
 
ですから、それまでの超エリートコースを歩んでいたサウロが、先程まで自分がいじめていた極貧のイエスを慕う人々の仲間になったということになりますし、それはそれは劇的な体験だっただろうと思います。
 

◆罪から離れられないこと

パウロは、この「死」を、「罪」と重ねています。
 
罪は罰を伴います。そして、人が罪の中にいることは、分かっています。罪のない人間など、ひとりもいないのです。ただ、神がその罪を裁くという点が、恐ろしいとは考えられています。イスラエルの昔の歴史を見ると、神に背いた罪により、幾度も民族が危機に追いやられ、人が罰されてきました。それを、パウロはその罪はむしろ神が憐れんで、救いの恵みの中に導いてくれるという訴えを始めることになります。
 
だからまた、それでは恵みを受けるためには、いっそ罪の中にいたほうがよいのだ、というような極論が生まれてきます。パウロはそのような不健全な思想を封じようとしていました。先ほどのローマ書6章の初めからお読みします。
 
1:では、何と言うべきでしょうか。恵みが増すようにと、罪にとどまるべきだろうか。
2:決してそうではない。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょう。
3:それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにあずかる洗礼(バプテスマ)を受けた私たちは皆、キリストの死にあずかる洗礼(バプテスマ)を受けたのです。
4:私たちは、洗礼(バプテスマ)によってキリストと共に葬られ、その死にあずかる者となりました。それは、キリストが父の栄光によって死者の中から復活させられたように、私たちも新しい命に生きるためです。
 
罪の中にいれば、神に憐れんでもらえる。そんな間違った考えを、パウロは拒否します。なぜなら、もう罪に対して、キリスト者自身、すでに死んでしまっているのだ、と言ったのです。罪に死んでいるのだから、その罪の中にいることなどできないのだ。簡単な論理です。
 
罪に対して死ぬ? そう、イエスが十字架で死んだのは、そこに私の罪も死んだということにならないか。私の罪も、あそこに磔にされているのだ。あるいは、私の罪状書きがあるとするなら、あの十字架の上に、ぼろ雑巾のように掛けられて惨めな姿を晒したイエスのように、そこに掲げられている、とも言えます。裁判所の掲示板に公示されたように、私の罪状書きは無効になったのです。このことは、コロサイ書2章にもつながっています。
 
12:あなたがたは、洗礼(バプテスマ)によってキリストと共に葬られ、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです。
13:あなたがたは過ちによって、また肉に割礼を受けずに死んでいた者でした。神は、そのようなあなたがたをキリストと共に生かし、私たちのすべての過ちを赦してくださいました。
14:数々の規則によって私たちを訴えて不利に陥れていた借用書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださったのです。
 

◆罪の自分に死ぬこと

罪に対して死ぬ。それは私の罪が無効になるということを意味しました。イエスが十字架で死んだことを、自分の罪の故であると捉え、自分の罪がそこに効力を失ったことを、確認しました。
 
さらに言えば、そこに死んだのは「罪」という抽象的なものではありません。私自身も、確かにその十字架で死んだのではないでしょうか。つまり、罪が死んだというに留まらず、私が罪に死んだ、ということです。
 
最近は、教育の世界もずいぶんとソフトになりました。もちろん暴力がよいなどと言うつもりはありませんが、塾でも、気の使い方が増しました。保護者サイドからは、学校が甘いからという意味で、「びしびし厳しく指導してください」などと言ってくることはありますが、真に受けてはいけないのです。公的教育機関も、保護者への接し方は近年益々ソフトになっています。クレームが出やすいのです。そしてクレームがくると、対処が面倒になりますし、教諭の評定にも響きます。客としてもVIP待遇のように接しなければならなくなりました。
 
若い新入社員もそのようで、終身雇用が常識の時代と異なり、厳しくすればすぐに辞めていくケースが多くなりました。単なる悪口として言うつもりはありませんが、「打たれ弱い」のです。以前は家族的な付き合いや社員旅行が当たり前だったかもしれませんが、いまは会社仲間でのつながりは薄く、極めてビジネスライクになっています。私生活に話が触れようなら、たちまち「ハラスメント」として訴えられます。
 
教会も、昔はスパルタ式の信仰指導がよくありました。私より上の世代ではそれが当たり前だったとも聞きます。なんでも「罪」だ、と責めることが、救いへの道だと考えられていました。それがソフトな時代になってきたせいか、いまは教会で「罪」という言葉を聞くことが激減しています。
 
それどころか、「あなたはそのままでいい」「ありのままで神を信じればよいのです」ということが、教会でのメッセージの主流にすらなっている場合があります。それでキリスト教というのは一部で、「ありのままで」救われる信仰だという誤解が広まっているかもしれません。
 
特別に何か素晴らしいことをする必要はない。それは本当です。しかし、「罪」という言葉を全く気にかけずに教会生活をするということは、何か歪んでいないでしょうか。聖書には確かに「罪」と書いてあるが、それは誰か他人のことであったり、昔のイスラエル人のことであったりするだけで、少しも「自分」のことだとは考えていない、そんなことがまかり通っているかもしれない、ということです。
 
5:私たちがキリストの死と同じ状態になったとすれば、復活についても同じ状態になるでしょう。
6:私たちの内の古い人がキリストと共に十字架につけられたのは、罪の体が無力にされて、私たちがもはや罪の奴隷にならないためであるということを、私たちは知っています。
7:死んだ者は罪から解放されているからです。
 
確かに、自分の中の古い人ではあります。が、自分がキリストと共に十字架につけられて死んだというポイントを欠くことは、やはりできないはずなのです。
 

◆新しい命に生かされること

そしてキリストと共に死んだことを経て、だからこそまた、キリストと同様に、復活の道へと導かれます。
 
8:私たちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。
9:そして、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがない、と知っています。死は、もはやキリストを支配しません。
10:キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。
 
中には、そんなことがあるものか、と信じられない方がいることと思います。そうです。これは、分かる人にこそ分かることであって、誰もが聞いて、なるほど、と思えるようなことではありません。数学の証明のように、これがこうなって……と万人に説明が可能なことではないのです。
 
それだから、聖書を説く講壇の語り手が、実のところ分かっているのかどうか、それさえも定かではありません。キリスト教や聖書について、よくある教科書や、誰かの説明を借りて話すこと自体が、難しいわけではありません。聖書講演会ならば、少し勉強すれば可能なのです。それに、たとえばAIが最近話題になっています。新たな技術は、それをどう使うべきか、ルールがまだ決まっていないからです。作文をAIにさせるということは、けっこう簡単にできます。説教でも、ローマ書6:1-11から説教を作ってくれと頼めば、すぐに答えを返してきます。私も試してみましたが、それがなかなかよくまとまっているのです。AIの示してくれたメッセージのほうが、ある人の「説教」よりは、ずっと良い内容だ、とも感じます。(なお、参考までに、ローマ書6:1-11からのChatGPTによるメッセージを、最後に付録としてご紹介しておくことにします。)
 
しかし、血もあり涙もある人間が、血を流し涙を流したイエスに出会い、イエスの痛みや苦しみに心を寄せ、そのイエスに従って生きるという経験をした人の言葉は、やはり何かが違います。その経験をした聴き手には、響くもの、共鳴するものが感じられるのです。
 
語る者も、聴く者も、新しい命に生かされているとき、その新しい命のフィールドで言葉が交わされます。それは、復活のイエスが共にいるからです。キリストと共に生きている者、死により支配されていない者、罪の赦しを魂の底から知っている者には、表面上同じ言葉であっても、その言葉の深いところで、つながるものが感じられるものなのです。
 
パウロも叫んでいます。あなたがたにはこれが伝わるはずだ。私と同じように、イエスに出会ったとき、世界が変わって見えたはずだ。ついさっきまで気づかなかった世界を見た、と思ったはずだ。こんなに世界は光に溢れているのか、と気づいたはずだ。
 
そこで、このローマ書の段落は、次のように結ばれます。
 
11:このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きている者だと考えなさい。
 
「考えなさい」というのはいろいろなニュアンスが隠れているのだと思います。一言で訳すのは本当に大変だと思いますが、この語の意味としては、「計算する」「勘定に入れる」「見なす」「認める」「計算して判断する」というような様々な訳語が、シチュエーションによってはありうるとされています。
 
自分は罪により死んだ。しかしキリスト・イエスの救いの中にいるならば、神に向けて命があるのだ、と計算してよろしい、というのです。罪ある自分はもう生きておらず、神に生かされていると断言して構わないのだ、というのです。
 

◆生きよ

今日は「馬鹿は死ななきゃ治らない」という名文句の汀から、聖書の深みに入ろうとしました。この言葉は元来、死ぬまで治らない、というレトリックにより、森の石松をからかうセリフでした。もちろんそれは、死んでも治らない、という意味で言われていたに違いありません。
 
けれども、別の意味を私は読み込んできました。「馬鹿は死ねば治る」と積極的に理解したのです。「馬鹿」というのは、自分はどうせ罪の中から逃れられるはしないのだと諦めているような人間です。罪を繰り返し犯すような人間です。あるいはまた、どこまでも罪から離れられない人間です。
 
「死ぬ」というのは、その罪から逃れられない自分が、実は死んでいるということでした。過去にどんなことをしてきていても、今なおどんなよくないことに包まれていようとも、キリストの十字架を見上げたならば、そこに共に磔にされて、罪が処分されて始末済みであるということです。
 
「治る」というのは、その馬鹿さが消えるということであり、罪が赦されるということでした。無罪が宣言され、どんな罪があったにせよ、神が裁判で問題にしないということです。それを、いつまでもあの罪がこの罪がと訴状をちらつかせてくるのは、悪魔です。「訴える者」という別名すらもつ悪魔です。神はその訴えを退けます。イエス・キリストが十字架で一切の罪を背負っており、それを見上げる者の罪状書きは神の裁判所は受け付けないのだ、と決めているのです。
 
だから、もう治ったのだから、おまえは生きるのだ、晴れて無罪放免となったのだ、ということを知るように、とパウロは言っていました。これから、ここから、新しい命に生かされて生きていくのだ。あなたは過去の罪に死ぬのはよいが、あなたは未来に絶望して死んではいけない。生きるのだ。
 
預言者エゼキエルも、叫んでいます。神に従わなかった罪の故に、神殿も失い祖国も失い、異国に奴隷のように引かれて行ったイスラエル民族が、これ以上ないくらいに落ちこんでいる中で、死ぬな、生きよ、と叫んでいます。エゼキエル書18章です。
 
29:しかし、イスラエルの家は、『主の道は公正でない』と言う。イスラエルの家よ、私の道は公正ではないのか。公正でないのはあなたがたの道ではないのか。
30:それゆえ、イスラエルの家よ。私はあなたがたをそれぞれの道に従って裁く――主なる神の仰せ。立ち帰れ。すべての背きから立ち帰れ。そうすれば過ちはあなたがたのつまずきとはならない。
31:あなたがたが私に対して行ったすべての背きを投げ捨て、自ら新しい心と新しい霊を造り出せ。イスラエルの家よ、どうしてあなたがたは死のうとするのか。
32:私は誰の死をも喜ばない。立ち帰って、生きよ――主なる神の仰せ。
 
キリストの十字架を見上げ、そのキリストの腕の中に包まれるとき、必ずあなたは生かされます。新しい命を、心の中に、確かなものとして認めることができますように。

このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、
神に対してはキリスト・イエスにあって生きている者だと考えなさい。(ローマ6:11)

■ChatGPT作成説教

タイトル: 「新しい命への歩み」:ローマ書6:1-11のメッセージ
 
皆さん、今日はローマ書6:1-11に基づいたメッセージを共有します。この聖句は、私たちがキリストとの結びつきによって新しい命に生まれ変わり、罪の支配から解放されることを教えています。私たちがキリストの復活の力を受け入れ、歩みを共にすることで、神の栄光を輝かせる新しい人生を歩むことができます。
 
神の恵みと罪の問題(ローマ書6:1-4)
ローマ書6:1-4では、パウロ使徒が次のように書いています。「それでは、どうしましょうか。罪を続ければ、神の恵みがますます増えることになるでしょうか。そんなことはありません。私たちが罪に対して死んだ者であるのに、どうしてまだ生きることができるでしょうか?」この一節は、私たちが神の恵みによって救われたことと、罪の問題を真剣に考えなければならないことを教えています。
 
死との結びつきを断ち切る(ローマ書6:5-7)
ローマ書6:5-7では、「キリストと一緒に共に埋められ、キリストと一緒に復活することになったのです。私たちが罪と結びついて死んだのは、それは終わりであって、私たちの信仰が見返りとして与える復活への新しい始まりです」と書かれています。私たちはキリストとの結びつきを通じて、罪との絆を断ち切り、新しい命に生まれ変わることができます。
 
キリストとの共有体としての生活(ローマ書6:8-11)
ローマ書6:8-11では、「私たちがキリストと一緒に死んで、キリストと一緒に生きることを確信しています。それはキリストが死者の中からよみがえり、今は神の右に座っているからです」と述べられています。私たちはキリストとの共有体として復活し、キリストと共に歩むことができるのです。私たちが送るべきこの共有体としての生活は、私たちが日常の中でキリストの姿を示すことを意味します。私たちは自分自身の欲望や罪の支配から解放され、キリストの復活の力によって変えられた存在として生きることができます。私たちがキリストの恵みを受け入れ、信仰によって歩むことで、神の栄光を輝かせる新しい人生を実現できるのです。
 
この新しい人生の実現には、自己否定や自己犠牲が求められるかもしれません。ローマ書6:11では、「そうですから、あなたがたも自分たちは死んだ者ではなく、キリスト・イエスにあって神に生きている者として、自分たちを思って行動しなさい」と言われています。私たちは自己中心的な欲望や罪に従うことではなく、キリストの復活の力に従って生きることが求められています。
 
また、この新しい命への歩みは日々の努力と祈りを伴います。私たちは聖書の教えを学び、神との交わりを深めるために祈りを捧げることが重要です。神の恵みによって新しい命を受けている私たちは、神の導きを求め、聖霊の力を受けて日々成長し続ける必要があります。祈りを通して私たちは神の助けと力を得ることができます。
 
ローマ書6:1-11は、私たちがキリストとの結びつきによって新しい命に生まれ変わり、罪の支配から解放されることを教えています。私たちは神の恵みと共に歩み、死から復活したキリストとの共有体として生活することができます。この新しい人生への歩みは自己否定や祈りを伴い、日々の努力が求められます。
 
私たちがこのメッセージを受けて、新しい命への歩みを深めることを願います。私たちがキリストの恵みを受け入れ、信仰によって歩むことで、罪の支配から自由になり、神の栄光を輝かせる人生を歩むことができます。主イエス・キリストの復活の力によって、私たちは死から生命へと変えられ、神の栄光を顕彰する使命を果たすことができるのです。
 
私たちは新しい命を歩む中で、罪に対して戦い、誘惑に立ち向かうことも経験するでしょう。しかし、私たちは自分自身が罪に従っていた時代を過ぎ去った存在として生きているのです。ローマ書6:6では、「私たちの古い自己は、キリストとともに十字架につけられたので、罪のからだは滅ぼされ、もはや私たちは罪に奉仕する奴隷ではありません」と語られています。私たちは罪に支配されることなく、新しい命の自由を受けているのです。
 
この新しい命を実践するためには、私たちは神の言葉を学び、聖霊の導きを求めることが重要です。神の言葉は私たちに真理と方向性を与え、聖霊は私たちを助け、力を与えてくださいます。私たちが神の言葉に親しむことで、神の御心を知り、その御心に従って歩むことができるのです。また、私たちが日々祈りを捧げ、神との交わりを深めることで、聖霊に導かれ、力強く新しい命を実践することができます。
 
ローマ書6:1-11のメッセージは、私たちがキリストとの結びつきによって新しい命を受け、罪の支配から解放されることを教えています。私たちは自己否定と祈りを通じて、この新しい命を実践し、神の栄光を輝かせる使命を果たすことができます。
 
私たちがこのメッセージを受けて、新しい命への歩みを深め、神の御心に従って生きることを願います。神の恵みと力を頼りにし、罪に対して戦いながら、愛と正義の道を歩みましょう。主イエス・キリストの復活の力によって、私たちは新しい命の自由と喜びを見出すことができます。アーメン。

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