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自己満足で終わらないために

手話で「あんたの手話はまあまあだね」と返されたら、これはかなり喜んでよいそうだ。「まあまあ」としか訳せない手話は、並よりずっと高い評価を示す言葉なのだという。さらに驚くべきは、手話で「悪くない」という日本語にしかならない表現だ。これは、もう殆ど完全と言っているに等しいのだ。段階としては「まあまあ・まし・悪くない」となるが、「まあまあ」でも標準以上だから、ただの「訳」だけでは伝わらないものがあるということになるだろう。
 
しかし日本語では、「悪くない」はさほど高い評価だとは言えない。「ない」という否定の表現が、「部分否定」の感覚で捉えられているのであろう。しかしろう者の感覚では、この「ない」が完全否定であるから、「悪い」の対極的な反対を意味するようになっているのではないかと思う。
 
いずれにしても「ない」は、発言者にも受け取る者にも、誤解を招きかねない曖昧な表現である。説教者が指摘したように、「ない」という言い方によって、そのこと以外のすべてのものを指し示すかのような言い方であるために、結局殆ど何も言明していないのと等しいと見られる可能性があることも事実である。しかしまた、「~ではなく、…である」という仄めかしをしている場合もあり、言わずもがなで伝達している場合があるのも事実である。
 
イエスはあるとき、大切な掟についてイエスの質問に答えた律法学者に対して、このように評した。「あなたは、神の国から遠くない」(マルコ12:34)
 
この「ない」は、「遠いということはないよ」と言っているのか、「遠いの正反対だ」と言っているのか、その受け取り方は、この記録を読んでいる読者それぞれであってよい、と私は思う。聖書に対峙して、そこから神の言葉を聞くときには、それを読む時の自分の魂の状態によって、同じ私であっても、違って聞こえてよい、というのが私のスタンスである。
 
夏目漱石の『こころ』は、それを読んだときの年齢によって、受け止め方が全く違うものだ、と言われる。もちろん『こころ』に限らず、同じ小説を読み直すと、また違った読み方ができる、というのは、読書家は恐らく皆が経験することであろう。
 
まして聖書は、人間の魂に呼びかける言葉である。神との関係をつくる本である。たとえ神は昨日も今日も変わることがないにしても、その時々の私の信仰や人生によって、違うことを教えてくれてよいはずだ。それが生きた神の言葉というものであり、私が生きている、ということなのだろう、と思う。
 
しかし、聖書について、恣意的なものばかりであっては、読み外す危険性が伴うというのも本当である。聖書を歪んだ読み方で押し通し、それを以て教団全体の唯一の解釈として強要していくことから、社会的にも大いに困った集団が形成されることを、いまや多くの人が知るに至った。
 
聖書は、その前後の脈絡や背景から読むという営みも、非常に大切なことである。説教者は、このマルコの12章を中心に、場面の流れを追うことにより、この「神の国から遠くない」が、褒めているのか批判しているのか、明らかにしようとした。だが、それは聖書の解釈の決定のためではないと私は考えたい。
 
彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」(マルコ12:28)
 
場面は、ここから始まる。質問した律法学者には悪意は感じられない。悪意ある質問の場合、イエスはよく、逆質問をした。あるいは、逆質問するというのが、議論の一つのスタイルであった、とも考えられる。しかしこの場で、イエスは律法学者の質問に、やけに素直に返答している。神を愛することと、隣人を愛することだ。これらは、モーセに与えられた十戒を、さらに簡潔に二つにまとめたものであるように見える。
 
説教者が注目し、指摘したのは、「イエスが立派にお答えになった」と律法学者の心理に使われた言葉「立派に」であった。このギリシア語のもつニュアンスから、これを「完璧」と解する。ギリシア語は「カロス」であり、元来「美」をイメージする言葉であった。しかしギリシアでは、プラトンもそうだが、「美」は「真」なるものであり、「善」いものであるという理解が進んでいた。説教者が「完璧」としたのは、そういう総合的な観点を踏まえたものであろう。
 
一体イエスは何に対して「立派に」答えたのであろうか。それは、この直前で、イエスに対して入れ替わり立ち替わり質問をする者が現れていた点に関係する。そこには、サドカイ派、ファリサイ派、さらにヘロデ派なる名前まで記されているが、イスラエルのあらゆる学派やグループが現れた。イエスが自分たちに対して攻撃をしていると分かると、なんとかイエスを陥れようと彼らも策を練る。しかし、その都度イエスは見事な切り返しをして、権威を利かそうとする派閥の者たちを、ぎゃふんと言わせていたのである。
 
質問をした律法学者は、その様子を聞いていたのである。イエスは「立派に」答えていた、と思ったから、イエスに、最重要な律法について尋ねた、というのである。しかし、先に明らかにしたように、イエスは十戒の本質をコンパクトにまとめた二つの掟を速やかに返した。それで、「先生、おっしゃるとおりです」(32)と言っているのである。
 
ところがこの「おっしゃるとおりです」と訳されたギリシア語が、実はこれまた「カロス」なのである、と説教者は指摘する。日本語的には申し分ないが、実は元は同じ語である、というのは、なんらかの形で注釈してもらいたいものである。律法学者は、イエスが完璧だ、ということをまずは思い、次には実際に発言していることになる。
 
ではイエスの側はこの律法学者の考えをどう思っていたのか。
 
イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て、「あなたは、神の国から遠くない」と言われた。もはや、あえて質問する者はなかった。(12:34)
 
律法学者は「適切な」答えをした、と評価している。これは「カロス」ではない。これは「賢明に」「合理的に」といったニュアンスをもつ語である。現代的な観点からすると、そこには「理性」が関わっているのである。イエスは律法学者の答えに、筋が通っていることを認めたのである。そして、このイエスの査定に対して「もはや、あえて質問する者はなかった」という事態になって、この場面は終わっている。そしてこの後は、ひたすらイエスの側から教えを立て続けに発していくことになる。
 
説教者の指摘は痛烈だった。なぜ質問をしなくなったのか。それは、この律法学者を含めて、そこに居合わせた者が、この「神の国から遠くない」に、満足したからだ、と解した。つまり、「遠いの反対」と受け取って、「よし、この理解でよいのだ。完璧だ」と自己満足してしまった、というのである。
 
ここから説教は、それでは足りないという方向に走っていく。彼らは自己満足したのに、イエスは満足しないのだ。否、彼らはイエスが不足している。そういうわけで、イエス・キリストの救い、十字架に立ち返るべきことへと会衆を誘う。そのために、同じマルコによる福音書の原点に戻り、会衆に告げる。
 
「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。(1:15)
 
律法学者のそもそもの質問は、第一の掟についてであった。神の国に入るにはどうすればよいか、が関心の的であったはずである。しかし、マルコによる福音書は、神の国は人の外から近づいてくるものだ、ということを宣言している。神の側から、神の国はくる。それは神の支配なのであるから、神からもたらされるのである、とする。ただ、それは人の態度によってどうもたらされるか、が変わってくるものであろう。「悔い改めて福音を信じなさい」と言うからには、「悔い改め」が必要なのである。全生涯が悔い改めであるべきだというルターの考えをも援用して、イエス・キリストを知ることに、着地点を見出すのであった。
 
落ち着いた形で福音に向かった流れは、確かに説教として規定の路線である。だが、この説教は元々、聖書の文脈に応じた形で解釈してきたはずだった。だが、このマルコによる福音書の場面を辿って理解してきたことが、この文脈から飛躍した十字架で結末を迎えることとなった。いわば、最初に触れた私の読み方のように、その時その時によって比較的文脈から自由に神の言葉を受け止める路線に走ったことになったように思うのである。
 
ただ、確かにそれは福音であった。それに引き換え、私の心は、説教を受けながら、別の脇道に走ってしまっていた。それは、自分の理解に自己満足してしまうということであった。自分には何か足りないものがある、とは考えずに、「遠くない」を、手話の世界での理解のように「殆ど最高だ」と捉えてしまったことである。まだそこには「傷」があった。それなのに、「完璧」だと確信してしまった。
 
この私たちの陥りやすい錯覚が、本当は説教者も強調したかったのではないか、と私は説教題から感じた。そして私もまた、教会の指導者たちや、キリスト教界全体において、この幻想に囚われているのではないか、という厳しい問いかけが、一番必要だったのではないか、と思ったのである。
 
神学は一つの学問の場であり、学的な論争によって、互いに新たな出来事に気づかされ、目が開かれてゆき、キリスト教全体に益をもたらすべきである。だが、自説を「完璧」と勘違いすることによって、異説を論理的に粉砕していくことに喜びを抱くようになってしまうと、そのことがまるで麻薬のように、さらに自己義認の方向に暴走していくことになるであろう。
 
それは神学に限らない。教会が互いに別のグループを批判し、さらに非難までするとなると、同様である。信徒個人同士でも、そのことは変わらない。末端の信徒においては、そのようなことばかりであるかもしれない、という恐ろしさがある。そして私たちは、自分がそのような自己満足をしているということに、実に気づきにくい。もちろん、私を含めてのことであり、私などは最たる者であるのではないか、というほどに悩んでいる。
 
しかし、この説教では、そのことを深追いはしなかった。自己満足を悔い改めて福音を信じることにより、光の世界に包まれるという、よいニュースをもたらした。それでよいと思う。それでこそ、明るい気持ちにしてくれるメッセージというものだろう。
 
だが可能ならば、あと5分を用いて、この自己満足の罠について、具体例に触れつつ、あるいは自らの体験に触れつつ、人々の目を開かせてくれたら、と願うような気持ちがする。気づかないのだ。気づく術がないのだ。自己満足が、キリストとの距離をつくってしまう、というような抽象的な言い方では、私たちの魂にはグサリとはこないのだ。私たちをドキリとさせ、治療に走らせ、はびこり始めた悪の新生物をえぐるようにして切り取るオペまで、して戴きたかったのである。それが、謎めいた説教題の真意を、私に自分の問題として考えさせる機会となったように思う。
 
私たちは、いったいどのようにして、その自己満足に気づくことができるのだろうか。どうしたら、自分で自分をよしとする罪から、逃れることができるのだろうか。自分の考えが正しいとしなければ私たちは生きていけないし、それでいて、自分の考えが正しいとしてしまえば、罪に陥ることになる。ここが一番難しいところだと思うから、何かそのためのヒントを投げかけてもらいたかった。
 
もとより、そこは説教者の役目としては、「聞く耳のある者」は聞け、という態度が、最も「正しい」のかもしれない。後は聞く側が気づくかどうか、自己責任になる、というのもあり得ることだと思う。だが、私は小中学生に勉強を教えるとき、自分がちゃんと説明しておけば、後は聞く生徒の側の責任だ、というふうに考えることはない。プロとして、考えてはいけないのだ。授業後の質問でもよいから、なんとか全員にここを理解してもらいたい、伝えたい、との力強い語りを繰り返すのである。くどいくらい、ここが大事だ、と念を押す。もちろん、だから全員が理解できるようになる、とは言えないけれども。
 
淡々とした語り口調は、気品があるし、心に染みる。だが、どこが大事なのかをなんとか伝えたい、そのような熱意があったようには感じなかった。たどたどしくてもいい。時に早口になったり、時に噛んだり、やたら繰り返したりしてもいい。そしてここでは、「あなたはこの点で自己満足している」と差し向かいで突きつけるくらいの迫りを、聞く者としては、覚えてみたかった。いったい私は、自己満足に陥ってしまっている自身に気づくためには、どうすればよいのだろうか。イエス・キリストを見上げること、この方に従うことだ――そのようにだけ言われても気づかない鈍い私にも、そのきっかけが与えられるように、光が射し込む扉の隙間を開けてくださらないだろうか。

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