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試練に堪えることについての二つの面

ヘブライ10:32-39 
 
苦しい試練について、生々しい描写があります。そしられ、苦しめられ、挙句見世物にまでされたというのです。まだ以前の頃のような書きぶりですが、だとすると、この書簡ないし説教は、ずいぶん後に書かれたことを推測させます。思いのほか、長くこうした迫害が続いていたのではないか、と思わせるに十分な叙述だと思います。
 
2022年、統一協会がマスコミの好奇心の対象になっています。彼らがもし聖書を読もうとしていたなら、これらの箇所を自分たちのことだと受け止めたかもしれません。そしられ、テレビで見世物にされているわけです。尤も、財産を奪われたというのは、教団組織によってだと気づくかもしれませんが、自分の信仰を捨てるな、と強調するかもしれません。
 
その忍耐には報いがあり、やがて約束のものを受けることになるであろう、というようなところだけを取り上げると、恰好のスローガンになるかもしれません。さらにこのようにして見ると、自称する正統的信仰というものも、如何に不安定で奇異なものとして眺められるのか、ということも分かるような気がしないでしょうか。
 
ひとはいつでも、自分を正しく、まともなことのように考えたがります。聖書の言葉を、自分を正当化するために用いたい、という心理があるのでしょう。そんな悪質なものをも、人間は有しているわけです。グループでこうしてスローガンのように掲げるというのは、人心を操る基となりえます。でも、個々に神と自分との関係を思うと、また違います。
 
怯むことなく信仰によって生きようとする者こそ、神に認められる。預言の言葉はそのように示されますが、これを自分自身が、どこからどのように求め、また生かしていくのか、問い直さなければなりません。神の支持があってこそ、怯むことなく、信頼という基盤の上に、命が与えられるということを、どう真摯に受け止めるか、ということです。

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